正法眼蔵についてのメモ

 警戒しながら読んだが、明晰で読みやすい文章(いや、白文は読めませんが)なのでほっとした。

 

 おそらく勘所は「正当恁麼時(しょうとういんもじ)」にある、と思う。

 これは認識以前の認識、「あ、これはニンジンだ」とか「赤い」「長い」「なんか臭い」とかそういう印象をすべてとっぱらって、脳で意識する以前の認識(と呼べるのか?)を得る、ということだろう。確かにそうした目で世界を見れば、いろいろなものが違って見えるはずだ。

 ちょっとカントの「物自体」とかフッサールのエポケーとかを思い出す。

 その伝で行けば、道元の言う「仏性」はアリストテレスの「エネルゲイア」に近いようにも思える。

 

 あと「清潔」についてやたら口うるさく、具体的。

 劇画によくある、薄汚い乞食坊主が実は……、なんてのはフィクションだとわかる。

 一休さんの話とか。(一休は臨済禅だけど)

 だいたい身なりを清潔に保つのも修行のうちなので、毎日洗濯もするし、体も洗うし、歯も磨くのだ。

 歯磨きについては、楊枝を作って歯の隙間の汚れを丁寧にこそげ落とせ、とある。歯ブラシ(中国では棒の先に毛を植えた小さな板をつけたもので磨く、と書かれている)はダメ。歯垢なんて全然知らなかったはずなのに、よくもまあと感心する。道元は「出家も在家も口が臭すぎる!」と怒っている。当時は歯槽膿漏なんてあたりまえだったのだろう。

 これだけ気を配っていたから、病人の群れの中で修行しても大丈夫だったわけだ。曹洞宗は今もそうしたボランティアが多い、と瀬戸内寂聴が話していたのを聞いた憶えがある。