せっかくなので超訳について考えてみたことなどをぐだぐだと

 超訳『罪と罰』の原稿をしこしこ仕上げている時、考えたことや考えさせられたことがあったので、それを少し書いてみます。

 

 まず『超訳』ってなんだ? ってことで、ただわかりやすくするってだけなら少年少女向けのがいくつも出てるんで、そっちを読めばいいだけの話。

 岩波少年文庫の『ドン・キホーテ』なんかよくまとまってて、大人が読んでもいいんじゃないかと思うくらい。

「わかりやすさ」だけでないのなら、それ以外に何が必要なのか? といえば、「現代性」ですね。

 つまり「文学」でなく、ふつーの「小説」にしてしまおう、ということ。

 文学というものは「時代の空気」をそのまんましょってて、読書好きにはそれがたまらないわけだが、一般の人というか、文学というものにあんまり馴染みのない人にはそれが障害になることが多い。

 なので、ラスコーリニコフは「あーいるいる、こういうやつ」と思ってもらえるように書いたつもりです。

 

 次に気をつけたのは、注釈をなくすこと。行の脇に数字をふって後半部分に長々書いておくとか、行の途中にカッコでねじこむとか、そういうのをいっさいなくす。

 これも読書好きなら「なくすなんて信じられない!」ことなんだけど、あくまで「文学」でなくて「小説」なので、途中で流れが切れないようにしなくてはならない。だから註が必要な部分はどんどん削った。

 註釈といえば思い出すのは岩波文庫の『戦争と平和』

 すごい詳細な註とコラムがはさまってて、その部分だけ読んでても楽しいくらい。ちなみに『戦争と平和』では主人公が一旦フリーメーソンになるんだけど、コンビニとかで年末に売ったりする「世界の陰謀」みたいな本のフリーメーソンの項目で、そのことに一切ふれないのは何で? みんな読んでないの? それともトルストイがリアルなフリーメーソン像と、その思想の平板さと限界までも描き尽くしてるから?

 

 話しを戻して、次に感じたことは、これは長年翻訳書を読んでいても感じていたことだけど、なんというか、どうも西欧人と日本人は“思考の順番”みたいなものが違うなあ、ということ。

 翻訳というのは、個々の単語を訳す以外に、英語その他の「主語→動詞→目的語」という順番を日本語の「主語→目的語→動詞」という順に入れ替える、という作業が必要になるのですが、この順番の違いというのが、文章の構成や物語全体にも言えるんじゃないかな、とそんなふうに感じるわけです。

 だから、超訳なら思い切ってエピソードの順番を入れ替えてしまうこともアリなのではないか——『罪と罰』ではやりませんでしたが——と思ったりとか。

 これ、実は超訳でなく普通のちゃんとした翻訳で行われた例がありまして、有名なボーヴォワールの『第二の性』ですが、永らく定番になってた翻訳は途中から始まってました。(決定版では修正されてる)

 それから井筒俊彦訳『コーラン』も、これは訳者が前書きでことわってますが、途中の順番をいれかえている。

 とにかく「読者に読んでもらうこと」を考えると、どうしてもそういう部分がでてきてしまう、ということなのでしょう。

 

 で、順番の入れ替えはしませんでしたが、それに代わるものが必要だなと考え、原作にはない小見出しをつけました。(これは編集さんにつけてもらいました)

 漢文の授業でレ点とか学びましたよね。白文(サラの漢文)はとても読めないのでそういう記号を入れて読む助けとするわけですが、そういうものだと考えてください。

 

 最後に、実は私、シドニイ・シェルダンを一度も読んだことがありません。

 なんか、まだ刊行されてるんですよねえ……売れてるんだなあ……いいなあ……