外国語を学ぶのは無駄?

 クリントン政権のころ、サマーズ財務長官って人がいました。ノーベル経済学賞のポール・サミュエルソンやケネス・アローを親戚に持ち、自らも優秀な経済学者、ということであります。MITからハーバードの院に行って、28歳で教授になりました。これはハーバード大学史上最年少だそうです。

 で、この人、財務長官辞めた後、母校ハーバードで学長やってたんですが、2006年に「女が科学で優秀な成績をあげられないのは素質の問題じゃねえの?」と言い放って問題になり、学長を辞任させられています。しかもこの発言、うっかり言っちゃったとか、どっかの都知事みたいなウケ狙いじゃなくて、どうやら普段から明確に性差別を「信念」として持っていて、それをはっきりと表明した、ということなんだそうです。そら問題になるわな。

 以上のことは日本でもニュースになりましたし、何となく憶えてはいましたが、この女性差別発言以外にも、同時に珍発言があったことをこのサイトで知りました。

http://voxeu.org/index.php?q=node/7603

 中味を一部超訳しますと、サマーズが「そのうち世界中で英語が喋られるようになるんだから、英語喋れたら外国語なんか勉強しなくていいじゃん」って言い放った、てことですね。

 正直あぜんとしてしまうわけですけど、今の日本の現状を見ると、だんだんそうなってきちゃってますからねえ。ウチの嫁なんか「あたしが英語喋れればなあ……」なんて、しょっちゅうため息ついてますし。

 でもこれ、逆に考えると、サマーズのいう通りになってくるなら、英語ネイティブの人間はどんどん「世界」がせまくなりますわな。なぜなら英語さえ喋れれば「理解できないモノが世界のどこかにあるのでは」ということを考えなくて済みますからね。そう、「世界中が想定内」になるわけで、そうなってくるとどういうことがおきるかというと……

 どんどん「正しさ」というものを失ってきます。

 だって、「正しさ」ってのは、「他人」と出会わないと生まれない、というか自覚できないんですから。「正しさ」ってのは「正義」とか「謙虚」とか「清廉」とか、古今東西の文化が持つ、共通の「美質」みたいなもんです。外の世界を知らないガキがわがまま放題になるのと似た様なもんです。「他人」に出会わなければ、あいさつ一つできません。

 

 歴史上ありとあらゆる「文化」は必ず「外側」を意識しましたし、逆にそうすることなしに「文化」は生まれませんでした。そして、そうすることで文化は「正しさ」を獲得しました。その「正しさ」は概ね内向的で、現れ方は限りなく多様ですが、それは「自分たちが外側を意識している社会である」ことをメッセージとして発していました。

 さて、外側を失った社会は、どのような「正しさ」を獲得するでしょうか。

 そして、「グローバリズム」とは、社会が「外側」を失っていくことではないでしょうか。

 

 サマーズは世界銀行にいた頃、「グローバリズム展望」というメモを残しています。

 その内容は「環境保護のコストは貧困国におしつけたほうが合理的だ」というものだったそうです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Summers_memo

 おそらく、これから先、「正義」というものが何度も問い直されることになると思いますが、できうることなら英語以外の言語で、ハーバード大学の教室の外で、それがなされることが望ましいと考えます。

 

 なお、日本人があくまで「日本語だけ」に拘るなら、同様に「世間が狭くなる」でしょう。

 かといって、「会社では英語だけ使う」というのは、その裏返しでしかないと思います。

 「外側」を過剰に意識するのが日本文化だ、ともいえるわけですから。