インターネットって何冊なんだろうか

 1冊です。

 のっけから答えを言ってしまってなんですが、1冊なんです。

 どんなに情報量が多く、日々更新されていようとも1冊です。

 たとえ将来、すべての書籍の内容がインターネットに載せられることになろうとも、それは1冊でしかないのです。

 

 別にこういう考え方は目新しいものでもなくて

 「世界は一冊の本である」(聖アウグスティヌス)

 「世界は一冊の書物へと至るために作られている」(マラルメ)

 という人もいました。

 

 さて、では「一冊の書物」はインターネット、ひいては「世界」と対峙しうるのか。

 『もし小泉進次郎がフリードマンの『資本主義と自由』を読んだら』とかいうアホの二乗みたいな本が、インターネットや世界と等価と言えるのだろうか。

 ちょっと無理がありますね。

 しかし、「書物」に親しむ人にとってはそうなのです。

 特にインターネットについては、「ああ、やっと1冊分になったな」ぐらいの感じです。

 それよりも、「インターネットは世界に対峙しうるのか?」という方が疑問の様な気もしますが、まあそれはこの際おいておきます。

 

 これは「記号はいつ存在するか」という問題に繋がってくるように思います。

 物理学では「重力子(グラヴィトン)」の存在をあれこれしたりしてますが、そういうのとは別です。当たりまえですが。

 では、記号が「存在」を持つために何が必要なのか。

 

 五大皆響き有り
 十界に言語を具す
 六塵悉く文字なり
 法身は是れ実相なり

 

 有名な空海の「声字実相義」ですね。ヒッピーにもてはやされたこともあったようです。

 余談ですが、山本五十六は父親が56歳のときの子どもだから「五十六」とつけられたといわれていますが、実はこれが由来なんじゃないかな、と思います。余談終り。

 ここで空海は、世界は言葉だ、文字だ、と言っているように見えます。記号という概念を知っていれば、きっと使っただろうと思います。便利ですからね。なので、世界が記号であれば、それはやがて「一冊の書物」になると考えるのも無理のないことでしょう。

 では、世界が「存在」するのであれば、記号はいつ「存在」になるのか。

 記号が「つながり」を持つ時、それは「存在する」のではないか。

 

 この辺でやめておきます。

 ハイデガーの亡霊が出てきそうだし。

 何を言いたかったかというと、インターネットと書物について考えるなら、今までただ何となく受け入れてきた書物の「在り方」について、もう一度問い直してみた方が良いんじゃないかな、ということです。最近流行りらしい電子出版だとかの件も含めて。

 

 この話は後日、また別な切り口から書いてみたいと思います。