新聞をながめていたら、一面の下の方の書籍広告(サンヤツと呼ばれる部分)に『古井由吉自撰作品』の広告が出ていた。版元は河出書房新社。
古井由吉の文章が好きでたまらない。
彼の文章は、読まずに眺めているだけでもうれしい。なんだか、文章の底からサイダーの様な細かな泡が、つぷつぷと沸き立ってくるように感じる。サイダーは飲んでしまえばおしまいだが、古井由吉の文章は何度も何度も何度も味わうことができる。
ご当人はとんだセクハラ親父だという噂も耳にするが(古本屋には変な噂が流れてくることが多い)、そんなことはぜんぜんまったく鼻毛の白髪ほどにも問題に感じない。ある日仙人が現れて、「お前に古井由吉の文章力をさずけよう。その代わり杜子春ばりの試練に耐えるのぢゃ」と言われれば、「耐えます耐えます。耐えるから早く」とせかすだろう。
さて、この作品集なんだが、まだ出来上がりを見たわけでもないのだけど、あまり食指が動かない。
全巻予約するとサイン入り色紙がもらえたりするそうだが、「なんか違う」感しか覚えない。
もちろん、こうしたものを出版することで、真摯な作家が口を糊することができるのだ、ということはよくわかっている。
しかし、21世紀にもなって未だにこれってどうなんだろう、という危惧の方が先に立つ。
古本の世界では、もう何年も前から「全集」が売れなくなってきている。
まず、「日本文学全集」「世界文学全集」の類いがダメ。それらを全巻揃えよう、という人が本当に少なくなった。
そして個人全集も売れなくなってきた。漱石全集なんかちょっと古い版なら全巻揃いで1万円もしなかったりする。いや、それで売れればまだ良いが、ずーーーーっと在庫したままになることも多い。
なぜこんなことになったのか。とりあえず「活字離れ」とかは関係ないと思う。だって、全集を完読する人なんか、昔からいやしなかったし。
ともかく作家の膨大な作品群を同じ判型で同じ装幀の本にぎゅうぎゅうにつめこみ、それが本棚にずらりと揃ってるとなんだかとってもありがたい感じがする、という、その「ありがたみ」が薄れてきたのだ。
考えてみれば、全集といえば「積ん読」需要でもってる様なものだった。もう「いつでも読めると思うからいつまでも読まない本」に、希少な生活空間を明け渡すという発想がなされなくなってきているわけだ。
なんだかいやな話しになってきた。こんな話をするつもりではなかったのだけど、いつかはしなくてはならないのだから今してしまおう。
こうした状況を打破するには、やはり発想の転換が必要だ。
え、電子出版? 電子出版の「全集」なんか買う気になりますか? 確かに場所はとらないけど、買って何かうれしいですか? というか、大切なお金を差し出す気になれますか?
そう、電子出版での「全集」というシロモノを頭に浮かべると、なぜ本に「質量」が求められるのかが見えてくる。
ぱっと見て「実体」がある、ということは重大な読書へのきっかけ、つまりは直截的な快楽に繋がっているのだ。
問題は、その「実体」が効力を失いつつある、ということだ。
古本屋という商売をしていると、本の造り、装幀がかなり重要なのだと身にしみてわかる。もちろん中味だって重要だ。しかし、中味がエースピッチャーだとするなら、装幀・造本は残りの守備陣なのだ。連続27三振とれる様なバック要らずのピッチャーなら、どんな装幀・造本でも平気だろうが、なかなかそうはいかない。理想を言えば岩波文庫に入る様なものは、そうした超強力ローテーションであるべきだろう。でも実際は、そうなっていない。
全集はわざとそっけない装幀で統一することによって、バックに助けられない中味を浮き上がらせる、という効果があったように思う。
でも、もう誰も、誰もというのは言い過ぎかもしれないけど、まあほとんどの人が、そういうことを望まなくなってきたのだ。
「全集」を刊行するのは良いことだと思う。ファンにもありがたいし、作家も潤うし。
これは個人的な考えなんだけど、「全集」も一冊一冊の装幀を変えたら良いんじゃないかと思う。一冊ごとに別な装幀家にお願いしたり、いっそ判型だって違っても面白いんじゃないだろうか。
それでは統一感に欠けるかもしれないので、その作家の弟子なり知己なりに「総合プロデュース」を頼めばいい。あとは宣伝次第だ。
とりあえず、古井由吉の「槿(あさがお)」を読み直したいな、と思った朝のひとときでありました。
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新山韮虫 (金曜日, 05 9月 2014 09:42)
私の、facebookとgoogle+に、載せさせていただきました。
koshohirakiya (金曜日, 05 9月 2014 14:23)
ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。