教育改革とやらをいくらやってもダメダメ感が漂うのはなぜだろう

 またぞろ教育改革とやらを言い出してる人がいるとか聞いたんですが、なんで伝聞で書いてるかと言うと、どうせまたとんちんかんなこと言ってるだけなんだろうなあ、ってわかっちゃうので詳しく知る気にもならないからですね。

 「今の教育には改革が必要だ!」と喚けばとりあえず賛同する人が大勢いるのは、みんな「学校」というものが基本的に嫌いだったからです。正確に言うと「学校の授業」ですね。だから「改革だ!」ってんで、学校の教師に厳しいことを言うとウケがいい。ただそんだけ。

 現場の先生方が大変だってのはよくわかります。なんたってウチのバカ娘の面倒見てるってだけでも、そりゃあもう疲れるだろうなあと頭が下がります。

 じゃあ改革が必要ないかというと、そういうわけでもありません。

 

 改革といっても「制度」をがちゃがちゃいじったり、変なテストで現場を縛ったり、お金を出したり引っ込めたり、そういうのは全く意味がないと考えます。教育ってのは、そういう大枠の中で動いてる部分より、「現場」の方がウェイトが大きいんですから。古い映画の科白じゃありませんが「事件は現場で起きてるんだよ!」ってわけです。

 問題はその教育の現場が「平等」ではないことです。

 というか、「授業が不平等を生む装置になっている」ことが問題なのです。

 平等ということを言い出すと、「成績による差別はやめましょう」みたいな話になりそうですが、学校の成績なんてのは些末な問題(とここでは言ってしまおう)なんで、とりたてて槍玉に挙げる必要はありません。

 しかし、教育というのは社会の根幹ですから、みんな大げさに考えるのが好きなんですね。それが本質から目を背けることになってしまっている。平等というものを勘違いする元になっている。で、「改革」とか言い出す人は絶対にそこんとこが間違っている。

 本当の問題は、ちょっとしたことにあって、しかもそれはとっても根本的なことなのです。

 

 授業で先生が問題を出します。

 「わかる人!」

 はい、はい、と手が挙がります。

 「じゃ、○◎君」

 「45です」

 「違います。じゃ次△○君」

 「48です」

 「正解です」

 授業でよく見かける光景ですね。

 まずこれをやめる。どうやめるかというと、

 「45です」

 「違います。48です」

 とすぐに先生が答を言うようにする。つまり「正解は常に先生だけが持っているようにする」

 前半のようにやっていれば教師はラクですが、自然自然に△○君が○◎君より上、という空気ができあがってきてしまうのです。これは△○君にとってはいいですが、○◎君には非常につらい、授業がつまらないだけでなく耐え難いという感覚を、徐々に与えてしまいます。

 これ以外にも「正解は常に先生だけが持っているようにする」だけで変わってくる部分があるはずです。

 たとえば生徒が間違えた答を言う。

 「えーと、I am a cat?」

 とんちんかんな答を言うと、周りから笑い声が挙がります。

 これをやめさせる。

 先生は「間違いを笑う」ということを厳に戒めなくてはなりません。「正解は常に先生だけが持っている」からです。そして、それを放置すると「間違いを笑っていい」空気ができてしまい、それが「間違えた人を見下す」習慣を生むのです。わざとふざけた答をしたのなら、それには怒らなくてはなりません。授業はマジメにするものだからです。そして、先生も笑ってはいけません。「間違っても笑って許される」という甘えを生むからです。授業中に笑っていいのは先生が冗談を言ったときだけです。

 「平等」というのは本来こういうことでしょ?

 

 ただ、こういう「教室」で身に付いた「習慣」って、なかなか抜けないんですよね。私も抜けてません。なので教育の現場にのこのこ出かけておせっかいなことを言えた義理でもありません。まあ、せめて家庭の中だけでも気をつけようと、少しづつ、あまり嫌らしくならない程度に「改革」をしております。

 てか、今日本中がそんな感じですから、徒労感は否めないところではありますが……

 

 いつか我が家の「改革の成果」をご披露できればいいんですが、今のところ望み薄ではあります。正直、娘のことを考えると頭が痛い。