前回のエントリーを書いた後、ふと気づいたことがある。
ビートたけし(今は北野武だっけか。面倒なので以下「たけし」で)の根源ってのは、「教室」にあったんだなあ、ということ。
昔から毒舌でもなければ過激でもないたけしの喋りを、みんなが「すごいすごい」ともてはやして「国民的人気」にまで祭り上げてしまったのがよくわからなかった。「弱者を嘲弄する」とかの批判もなんだか筋違いに思えたし、むしろたけしの喋りは人畜無害に近いというか、「時々笑えることもあるけど全体につまんない」チームに私の中では分類されていた。
なぜこのような現象が起きたのか。
おそらく大勢の人が「教室」で毎日のように生成されていた「不平等」や「不自由」、そしてそこからくる「無責任」にノスタルジーを感じていて、たけしの喋りの中にその代用品というか同窓会めいた気分を見いだしたのじゃないだろうか。そして、「教室」に対してなんらノスタルジーを感じない、私のような人間にはピンとこなかったのだろう。
毒舌(?)と教養(?)がたけしの中に同居してることを不思議と語る人もいたけれど、根っこが「教室」にあったとわかればなんのことはない。
そういえば、私はテストの夢というやつを一度も見たことがない。他の人に話を聞くとけっこう見ているというか、妻なんか卒業してン十年たった今でも見ているそうだが。
あと、「ノスタルジー」と書いてしまったけど、他に適当な言葉が見つからなかったのでこう書いただけ。トラウマとも違うし。もっと的確な表現が見つかれば後日修正したいと思う。
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