30歳で箸の持ち方を直せたので脳カガクの常識とか疑ってかかるようにしているんですがどうでしょう

 30歳になったとき、ふと思い立って箸の持ち方を直しました。

「20歳過ぎたら脳みそが固まっちゃうんで、以後矯正不可能」という「カガク的」俗説は知ってたのですが、なんとなくできるような気がしてやってみたわけです。

 

 それまでの私の箸の持ち方は、指が一本づつ下にずれている、つまり人差し指と中指と親指で押さえるところを、中指と薬指と親指で押さえるという、ぱっと見わからないけどよく見るとおかしい、という持ち方をしていました。手が小さい頃はわからなかったので、母親も修正する機会を逸してしまったのでしょう。

 といってもよく見れば人差し指が遊んでいるのでおかしいとわかるわけですが、当時の私ときたら「人差し指は人を指す指だから食事には使わないんだよ」といいわけしたりしてました。うわああ、バカだ。バカがいる。きっとそのいいわけを聞かされた相手も同じように内心思いながらそれ以上追求しなかったのでしょう。だってこんないいわけ、聞かされた方が恥ずかしくなるようなレベルのもんですからね。

 

 いいかげんバカもほどほどにしなきゃいけない年齢になって、箸の持ち方を矯正しようと思い立ったわけですが、やはり道は平坦ではありませんでした。

 子供向けの箸の持ち方矯正なら本も出てればグッズも売ってるのですが、大人向けは皆無です。なんたって「20歳過ぎたら矯正不可能」ですから。

 仕方ないので根性でがんばることにしたんですが、無理に持ち方を直して食べても、どうも勝手が違う。気を抜くとすぐ元に戻る。これじゃリバウンドするダイエットより酷い。意味がない。さあどうする。

 大リーグボール養成ギブスみたいな、箸の持ち方矯正ギブスでもあればいいのに、とか半ば本気で考えたりしたんですが、無理矢理やってるうちにある考えにたどり着きました。

 箸の持ち方が、気を抜くと元に戻ってしまうのは、クセがついてる右手で無理にやってるからじゃないのか。じゃあ、何のクセもついてない左手でイチから始めたらいいんじゃないのか、と。

 

 結論から言うと、これが図に当たりました。

 まず左手で箸を使う訓練を始めまして、けっこうな苦労を予想してたのですが、2週間ほどで普通に食事ができるようになりました。意外と早かったですね。

 そしてその指使いの「感覚」を、そのまま右手を使う時に当てはめるようにしたのです。

 左手よりむしろこっちの方が面倒で、ひと月ほどかかってしまいました。やはり右手には昔のクセが残ってますから一筋縄でいかない。

 やがてその後、右手に残ってる「クセ」も消えてなくなりました。消えるまでどのくらいかかったかは、正直よくわかりません。ふと気づくと消えていた、という感じです。今では元の持ち方で使う方が難しくなっています。

 

 と、このように一般には「20歳過ぎたら無理」と言われている箸の持ち方の矯正に、30歳のおっさんが成功したわけです。

 で、この時思ったのが、「世間で言われてる“脳”について言われてるあれこれって、眉に唾つけといた方がいいな」ってことです。

 「20歳過ぎたら1日50万個脳細胞が死ぬ!」って話とか、だからどーしたとしか思えないんですね。

 たぶんこの俗説は「年をとると忘れっぽくなる」という話の根拠になっていて、その裏には「年とったら多少ぽかしても許されるよな」という、「記憶は若いもんにおまかせ」な小狡い計算があるような気が、しないでもないような気もするような感じがあったりするんです。

 まあなんというか、「年を取ると忘れっぽくなる」ってのは自分でもそう感じなくはないんですが、冷静になって考えると若い頃だってけっこうよく忘れてたし、そんなに新しいことへの記憶力が衰えたわけでもない。いや、知識的な面での記憶力なら、むしろ若い頃より今の方がある。

 じゃあ「年を取ると忘れっぽくなる」てのはなんなのかというと、ただ「忘れてもへーき」になるってことだと思う。けっこう大事なことを忘れてても「いやあ忘れてた。どうも年をとるといかんね。あっはっは」でごまかす。若い頃は「忘れる」ということ自体が一大事で、何か思い出そうとして思い出せないことがあると、一週間とかことによるとひと月とか、悶々として過ごしたりしたものですが、年を取ると「あーなんか思い出せねーや。ま、いーか」となって、へーきのへーざになってしまう。

 忘れっぽくなるんじゃなくて、記憶への執着がなくなってくるんですね。そういえば「記憶は人間に与えられた見えない牢獄」というセリフが『市民ケーン』にあったような気がしますが、ちょっとうろ憶えです。ま、いーか。

 

 あと右脳と左脳ってのがありますね。まあ確かに右と左で機能が違ってることはあるんでしょうが、そこから「左利きは空間把握力に長けていて絵が上手い」「左利きは芸術的才能に長けている」「天才は左利きが多い。ダヴィンチは左利きだった」とかいう諸々はまったく信じてやる義理などないわけで、冷静になって思い出せば、今まで出会ってきた左利きの人間が、右利きの私よりずっと絵がヘタとか普通にあったわけで、まあなんというか「こうだと言えないこともないけど」程度の話が世間に流布するうちに、なにやら真実めかした色がついてきてしまったのでしょう。

 最近だと男脳と女脳ですか。「女脳は地図が読めない」とか、じゃあ男で地図が読めないやつは何なんだってだけで、個人差に埋没する差異って意味あんのか、と思います。そこらへんは右脳と左脳と同じですね。

 

 科学というのは客観的な実証によって発展してきたのだ、ってのはクーンのパラダイム論でケチがついてから慎重にやるようになってきたみたいですが、まだまだ一般に流布するカガクのレベルでは旧態依然といった感じです。

 「事実の形姿は、我々がそれらの事実を述べる言語によってほとんど決定されている」というサピア=ウォーフの仮説があります。人は物事を見たいように見るので、絶対的に客観的な事実を把握できてるわけではない、ってことです。クーンの先達であるノーウッド・ラッセル・ハンソンは多くの人々は物理的「対象」と客観的「事実」を混同している、と述べました。

 まあ、「20歳過ぎたら箸の持ち方の矯正は無理」ってのは、そのような「事実」を欲する人たちが大勢いた、ということなのでしょう。

 

 ちなみに、最後にふれたハンソンは哲学者でありつつ物理学者でピアニストでパイロットで、戦闘機ベアキャットのスピード記録に挑戦して事故死したと伝えられています。まだ43歳でした。