人はいつ「わからなく」なるのかわからないということについて(あるいは3.11でわからなくなったいろいろなこと)

 一口に「わからない」といっても段階があります。

 まず、知らないからわからない。知識が不足していればわからないのは当たり前。

 次に、知識はあるがそれの組み立て方がわからない。

 そしてその上の段階として、わかってるけどわかってない、ということがわからない。

 ここまで来ると『純粋理性批判』ですね。カントは理性の限界を示して、どんなにがんばってもわからないことがある、ということをわかりにくく書きました。だって、カントが生きてる時代は、「わかってるけどわかってない」人たちがたくさんいたからです。そういう「俺はわかってるぜ」という人たちに「君はわかってない」ということをわからせようとすると、すぐ「じゃあお前はわかってるのか」と返してくるので、「僕もわからないけど君もわかってないんだよ」と言わなくてはなりません。「わかってるけどわかってない」人たちの「わかってないくせに、なんでわかってる人間を批判できるのか」という問いに答えるためには、「わからない」ということについて徹底的に考える必要があったのです。なので、どうしてもわかりにくくなってしまった、というわけです。

 カントが生きていた頃、「わかってる」人たちが何についてわかっていたかというと、「神は正しい」ということでした。

 そして、21世紀の日本において、「わかってる」人たちが何についてわかっているかというと、「科学は正しい」ということです。

 

 さて、昨年の3.11以降、いろいろな論がとびかいました。その中にはたくさん、「科学的」に「わかってる」人たちのものがありました。

 「科学的」に「わかってる」人たちは言います。

 「事故なら自動車だって起こす。しかも毎年何千人と死んでいる」

 「自然界にもたくさんの放射能が元々あるんだ」

 それは「科学的」に正しいのでしょう。

 しかし、「わかってる」人たちの間でも、「放射能がバラまかれたことの責任は誰にあるか」ということについては、意見が分かれているようです。「わかってる」人たちの中には「使い放題の電気を欲した国民に責任がある」という人がいて、それに対してその人を納得させうるような「科学的」な「反論」がないからです。

 だって、「責任」はぜんぜん「科学的」じゃないんですから。

 自動車事故の責任者は自明ですが、それは「科学的」に決定されているわけではなくて、「社会的」「慣習的」に決められているものです。

 「科学的」に「わかってる」人たちは、「責任」は非科学的なので、考えに入れたくないのでしょう。

 「原発の放射能を怖れる必要はない」

 「放射能よりも発ガン性物質の方がよほどガンを誘発する」

 その通りなのでしょう。

 「科学的」に「わかってる」人たちは、「人が死ぬ」ということと「人が殺される」ということの区別をつけられません。発ガン物質に由来するガンと放射能に由来するガンは区別が付けられないので、もし統計的に有意差があったとしても、放射能が原因だとは「言い切れない」と「科学的」に解釈するでしょう。差が少なければなおさらです。

 しかしそれは、「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない」というスターリンのセリフと五十歩百歩のように思えます。

 目に見えない放射能というものがバラまかれてしまえば、たとえそれが人為に由来するものであっても、自然界のものと区別がつかなければ一緒にして考える、というのが「科学的」に「正しい態度」ということなのでしょう。

 科学の限界が、これほど身近に感じられたのは、近来にないことでした。

 原発であり得ないはずの事故が起きた、ということでなく、その事故後の「科学的」思考について、今後いくら技術が進歩しようと越えられない壁、のようなものを見せられたような気がしました。

 

 あの日、いろいろなことが「わからなく」なりました。

 今までわかっていたはずのことまでわからなくなりました。

 これから11日まで、何が「わからなく」なったのか、わからないなりに少しづつ書いてみたいと思います。

 

 ちなみに、カントは1755年のリスボンの大地震に大きな衝撃を受け、その哲学を完成させといわれています。

http://nisee.berkeley.edu/lisbon/