ずっと家にいる動物を見ていてなんとなく思ったこと

 家には黒猫が一匹いて、丸くなって寝たり、テレビに映る指揮棒に飛び掛かったり、皿をばたつかせてメシを要求したり、人がご飯を食べようとするとトイレに呼びつけたり、洗濯機の上から滑り落ちたり、机の縁に全力で頭突きしたり、3階のベランダから飛び降りたりして見ていて飽きない。

 昔、タモリがなんともうれしそうに「ネコって、馬鹿だよね〜」と言っていたのを思い出す。「自分より馬鹿な動物がうろうろしてるのは楽しい」と彼らしいコメントをしていた。

 

 で、話は全然変わって、そういえば「動物」って、「動く」「物」と書くなあ、「物」とはどういうことじゃい、とちょっと考えた。

 「物」という漢字は、よく見ると「牛」が入っている。

 元々は牛に犂を引かせて耕作する様を映しているらしい。

 最近は「もの」と開いて書いている本も多いけれど、漢字を使っている以上「物」を見れば、知らず知らずのうちに「牛」も目にしてるわけだ。

 生物、動物、植物、物体、物質、物理学、無機物、有機物、物心二元論、唯物論、物欲、荷物、大物、物故……

 おお、世界は牛だらけだ。こんなに牛が身近だったとは。ヒンズー教徒でもないのに。

 古代の中国では、巨大なものと言えば「牛」であり、「世界」を象徴していた、と白川静は書いている。

 

 つまり、漢字を使用している以上、「物」を客観的に見ようとしても、無意識下に「牛」が侵入している、ということになる。

 これはアニミズムなんかよりも根底的なことだ。

 だってアニミズムは、どうしても「自然」の中にだけそれを求められがちだけど、「物」ならそこらの都会にだってある。いや、都会の方が「物」で満ちあふれている。「八百万の神」といっても、クレジットカードやセグウェイに神性が宿っているとはとても思えない。でも、神性なんかなくたってそれらは「物」なのだ。アニミズムなんかより、こっちの方が影響が大きく、幅広いんじゃなかろうか。

 で、日本人及び中国人は、どんなに無機的な対象であっても、「物」の中に牛のごとき「生命」を感じざるを得ない、ということになってくるわけだ。もーもー。

 

 ところで、写真右下の黒くて丸いまっくろくろすけな物体が、我が家の黒猫である。

 こうしていると、どこが頭やら尻やらわからない、どこぞの「物の怪」のようだ。