司馬遼太郎を読むとわかってくる電子書籍に何が足らないのかについて

街道をゆく (15) (朝日文芸文庫 (し1-16))

 

 えーと、なんか国の方で電子書籍を後押しするとかで、150億ほどぶっこむそうです。国、といっても官民ファンドってやつなんで、直接じゃないんですけど、それにしても150億かー、いーなー。なんか上つ方で別な思惑があるのかもしれないけど、とりあえず出版界はこれに引き寄せられて、我も我もと押し寄せることでありましょう。不況だしね。

 

  そんなわけで、えー、どんなわけだかは置いといて、いろんな人がいろいろ書いているにもかかわらず、きちんと論じられたことがない国民作家、司馬遼太郎に ついてちょっと書いてみようかと。なんかえらそうに書き出してみましたが、本当に論じられていないんだからしょうがない。みんな「歴史」小説家としてしか 司馬遼太郎を見てないんで、「司馬史観はおかしい!」くらいしか言わないし。そりゃ幕末を散々書いときながら、長州から数多の志士が輩出したことについ て、「なぜか雲霞のごとく」みたいなことしか言わないなんてねえ。防長大一揆で藩政府側が敗北したことが背景にあることくらい、書いてもよさそうなもんな のに。

 でもそういうことなんか関係無しに、司馬小説は文句無しに面白い。『竜馬がゆく』なんて、今もって真似したがるやつがいるくらいだし。なぜこんなに面白いのか。

 

 司馬小説の特徴として、とにかく人物の造型と描写が的確だ、ということがあります。しかも、主人公だけでなく脇役も悪役もちょい役までも、きっちりと「造られて」いる。

 それは歴史上の人物に対してだけではなくて、今現在生きていて司馬氏が直接あった人に対しても同様で、『街道をゆく』に出てきた今東光なんか、読んでるうちに目の前で動いてるかのような錯覚を覚えたくらいです。

 といっても贅言を尽くして造り込んでいくのではなくて、できるだけ少ない言葉で、一刀彫の名人のごとく、たったったったっと鉈一丁で彫り上げていく感じ。しかもその一刀々々が的確で迷いがない。

 このような名人芸で削り出された人間を、映像で表現しようとすると大変ですね。

 司馬遼太郎がたった一行で表現したことを、多大な労力をかけて再現しなくてはならなくなる。俳優だって尋常じゃない演技力を要求される。思うように行かないと、どんどん「時間」をかけてみたりする。原作にないセリフをだらだら言わせたり、無意味な間をとったり、果ては勝手なエピソードを付け足したり……。なので司馬作品を映像化したものって、だいたいつまらない。やりたくなる気持ちはわかるけど。

 いや、そりゃがんばってるものもありますよ。『花神』は中村梅之助が好かった。しかし、それですらもう、原作の小説を読んだら馬鹿ばかしくなるくらい差があるんです。

 

 でも変ですね。「百聞は一見に如かず」という言葉が示す通り、きちんと造られたものなら、映像にした方がわかりやすくなるはずなのに。なんでこんなことが起こるのか。

 つまり、人間が人間を理解する、ということにおいては、

 

 「百見は一読に如かず」

 

 だからなんですね。

 人間の「でき方」ってのは、言葉の方がよく伝わるんです。

 以上。

 

 え?電子書籍の話はどうしたって?

 ここまで書いたらわかるでしょ。

 こちとら古本屋なんだから、そうそう敵に塩を送ったりなんかしません、てかもうこれで100tくらい送っちゃったようなもんですが。

 

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