「詩の戦争」においてギュンター・グラスは宣戦布告したのではないか

ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』全3巻セット (集英社文庫)

 

 

 ギュンター・グラスの作品に始めて接したのは、高校三年生のころだった。

 受験の合間に『ひらめ』という上下2巻からなる分厚い、そして濃密な本を読んだ。買ったきっかけは単純で、よく足を向ける本屋で平積みになっていたその本の表紙、ギュンター・グラス自身が描いたヒラメの版画がすごく気に入ったからだ。ギュンター・グラスは版画家でもある。そして、小説家で、もともとは詩人だった。

 そして大学に入ってから、『ブリキの太鼓』という映画を見た。グラスの原作で、監督はフォルカー・シュレンドルフ。この監督は後に『スワンの恋』や『侍女の物語』を撮った。『侍女の物語』はハロルド・ピンターが脚本を書いていて、音楽は坂本龍一。ピンターは2005年にノーベル賞を受けた。ギュンター・グラスも、映画が出来てから20年後の1999年にノーベル賞をもらったから、この監督の批評眼は大したものだと思う。

 原作の『ブリキの太鼓』を読んだのは、映画を見てからずっとあとだった。それ以前に『猫と鼠』や『犬の年』を読んでいたので、なんとなく後回しになっていたのだ。そして、もっと早く読めば良かった、と後悔した。

 

 ギュンター・グラスがまた騒動を起こしている。

 以前、「元ナチだった」ことを告白して以来だ。

 そして今回もその告白につながる、というか続編を読まされているような気分になる。

 ギュンター・グラスが一編の「詩」を新聞に発表し、それがイスラエルを非難した内容だ、というのだ。そしてグラスは、イスラエルの核兵器がイラン国民を殺戮することを憂慮している。

 イスラエルは早速グラスを「元ナチの反ユダヤ主義者」と呼び、

 http://www.jpost.com/DiplomacyAndPolitics/Article.aspx?id=265021

 イランはとまどいながら様子見をしている。

 http://www.irna.ir/News/Politic/Nobel-laureate-Guenter-Grass-rips-Israel-for-threatening-Iran/80061734

 現在、アメリカはイランに「核」を放棄するよう求め、日本もそれに同調している。そしてそれは、「西側」と昔呼ばれた国のほとんどがそうしている。

 グラスは元ナチだ。自分でそう告白したのだ。その自分がイスラエルを非難すればどのような反応があるか、予測できなかったはずがない。

 なんだか読んでいるうちに、こちらがグラスの小説の世界に紛れ込んだような不可解さを覚えさせられる。

 世界はいつからこんなにもグロテスクになっていたのだろう?

 

 昔々その昔、アラビアでは詩人は特別な力を持つ、とされていた。

 その霊感は「妖霊(ジン)」から与えられたもので、口から吐き出される言葉は矢よりも鋭く、剣よりも強く、人を傷つけると考えられていた。

 とある王宮で、詩人がその生活の退屈さをたった二行の詩に詠んだ。王はその詩が広まることを怖れて詩人を殺した。そんな話が残っているくらいだ。

  詩に「力」があると思っていたのは、何も昔の中東だけではない。日本だって、古今和歌集に「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり」と書かれている。

 

 しかしアラブはそんな力を持つ「詩」によって、戦争までしていた。

 「詩の戦争」は兵が対峙する前線で、おおむね夜に行われた。

 互いの陣中の詩人が交代で詩をうたい、兵たちが唱和した。どちらがどれだけその鋭い言葉で相手の心を縛れるのか、それを競うのだ。ただの余興で終ったことも多かっただろうが、それで決着がついたときは、朝になると敵軍が消えていたそうだ。

 

 そう、これは「詩の戦争」ではないのか。

 すでに宣戦は布告され、最初の兵器が使用された。

 イスラエルはこれに対し、グラスを上回る「詩」によって応えるべきだろう。

 そしてそれは、グラス以上に「平和を希求する」ものでなくては、勝利できないはずだ。