ノーベル賞経済学者の大罪 増補 (ちくま学芸文庫 マ 32-1)
「大罪」ですか、なんかすごいタイトルですね。小見出しも刺激的です。
第1章:お砂場遊びの坊やたち
第2章:統計的有意性はお呼びでない
第3章:黒板経済学の不毛
第4章:社会工学の思い上がり
第5章:新しく謙虚なブルジョアの経済学
補論:経済学の秘められた罪
……とまあ、どっかの夕刊紙みたいな見出しが並んでいます。
が、内容はごく真っ当な現代経済学の入門書で、ちょっとひねくれた人が経済学の裏口から入るのにちょうど良い、そんな感じです。経済学そのものを根底から問い直そう、というようなことではなく、ほっといたらずいぶん薄汚れてしまったのでお洗濯しましょ、といったところ。
ただ、読んでいるうちに、経済学の弱点が見えてきてしまう、というの確かです。著者はそれを指し示すだけで黙ってる、つまり「ほら、見れば分かるでしょ」と言いたげにそれについては口を閉ざしています。
それがナニかと申しますと、どうやら経済学は「ゼロ」というものを上手く認識できないってことです。
「ゼロ」というのは統計上の“0”、つまりほとんどの場合プラスからマイナスへ、もしくはマイナスからプラスへと移行する「通過点」ということです。プラスやマイナスはきちんと把握できるのですが、どちらでもない宙ぶらりんな状態になると、とたんに寡黙になってしまう。
「宙ぶらりん」てのは、景気が良くもなく悪くもない状態、金持ちでもなく貧乏でもない人々、などなどのことです。だから経済学者や「評論家」と呼ばれる人たちは、どちらかに決めたがるんですね。
「そんな宙ぶらりんな状態なんか、そんなにあるわけじゃないんだから、経済学が無視するのは当然じゃないか」という考え方もないわけではないんですが、「宙ぶらりん」でありつつ無視できない存在、ってものがあるんです。
それは「経済学者」です。
「経済学者の経済学」もしくは「経済学の経済学」というものが存在できないのは、そのためですね。
もっと具体的に分かりやすい例で言いましょう。
とある地方に小さな大学があると仮定します。ちなみに経済学は「〜だと仮定する」が大好きです。
その大学には経済学部があります。
そしてその大学は大赤字だとします。
さて、その時、経済学部の経済学者たちはどのようにすれば良いでしょうか?
大学の運営に口を挿みますか?
もし、その大学の経済学部が無名の教授たちは授業に熱心でなく、しかも論文も大して書いてない、としたらどうでしょう。
経済学的に考えて、その大学から経済学部をなくした方が良い、という判断を経済学者はするでしょうか?
この例だと、「経済学と経営学をごっちゃにしてる」と思われるかもしれません。
ではこれならどうでしょう。
日本の経済学はノーベル賞を一人も出していません。
しかし、アメリカの経済学者は何十人も受賞しています。(この本にある通りです)
じゃあ、日本の経済学なんか全部なくして、経済学はアメリカに全面的におまかせしてしまった方が、より「経済的」なんじゃないの?
…なーんてことを経済学者は言いません。
でも、会社経営や国家経済については、類似したことをどんどん申し立てますよね。
経済学は「社会科学の女王」を自認しています。
それはこの本にも「経済学は真に社会科学の女王なのだ」と書かれています。
しかし、女王様は鏡を持っていないのです。
だって鏡なんか覗いたら、「おまえは一番じゃない」って言われちゃいそうですからね。
コメントをお書きください