「イデオロギーは死んだ!!」
いやあ、カッコいいなあ。「神は死んだ」の次くらいにカッコいい。
じゃあ、イデオロギーってなんだ?
この質問にだいたいの人は、
「あ、ほら、あれだよ、北朝鮮みたいの。将軍様マンセーマンセー行ってるやつ。ああいうのでしょ」
と答えると思います。
あ、いや、間違ってはいないですけどね。30…いや20点くらいかな、この答えだと。
保守主義の人だと「イデオロギー」って言えば、社会主義とか共産主義とか、そういう体制の根本をなす思想のことを指して呼びますね。
マルクス=レーニン主義では、階級闘争において克服されるべき「虚偽意識」、てなってます。
あと、まあ「世界観」だとか「地平」、「観念論」、「空論』etcといろいろあるんですけどね。
共通して言えることは、みなさん
「イデオロギー=悪」
って決めつけてる、ってことです。そう考えることこそがイデオロギーだったりするんですが……まあ、いいやそこんとこは。
さてと、気を取り直して、えーっと、まず、
「イデオロギーは死にません」
ので、よく憶えといてください。
イデオロギーってのは人間を人間たらしめてるものなんです。マルクスっぽく言うと、下部構造のそのまた下部構造、てくらい。なので、イデオロギーが死ぬときは人間が滅ぶときです。全人類がいきなりツァラトゥストラになって覚醒したら、さすがのイデオロギーも死ぬかもしれませんが、そんなことはあと十万年くらいありえませんので。
じゃあ、その不死身のイデオロギーはどこにあるのかというと、割とどこにでもあります。毎日無意識に呼吸してるといってもいいくらい。「常識」と呼ばれるものにはもれなく入ってます。
ものすごくわかりやすくいうと、人間には、「理性」とか「悟性」(考える力みたいなもん)とか「知性」という頭脳派な部分と、喜怒哀楽の「感情」とか食ったり寝たりえっちしたい「欲望」そして「恐怖」という肉体派な部分、この2グループが入り交じってます。だいたい前半のグループと後半のグループは対立するんですが、そこにイデオロギーが入り込むと、上手いことくっついていろんなものを生み出すんです。
そうやって生まれるのが「常識」とか「良識」とか「文化」とか「社会」とか、要するに人間を人間たらしめてる諸々の事柄なんですね。
対立するものをくっつけちゃうなんて、水と油を溶け合わせる界面活性剤みたいですが、イデオロギーは人間を基礎付けると同時に、知らず知らず悪の道に引きずり込む働きも持つ、ということは歴史が証明してます。
ヒトラーとかスターリンとか、まあ、いくらでも例は出てくるわけで、そこらへんはもういいでしょう。
ところで、ここまでの部分、アルチュセールとマンハイムに多くを負って書いてます。なので、安心してください。古本屋の妄想とかじゃありません。
多くの人は「イデオロギー? え? 俺関係ないっすよ」と考えていると思いますが、実はちゃんと関係しています。
まず、イデオロギーでダメっぽいことが起きる時ってのは、だいたい「恐怖」や「怒り」が関わってきますね。
冷静に考えればどーでもいーよーなことに、大勢の人が必死になって怒っている時、なんかしらん「ぞっとする」とか恐がってる時、イデオロギーの馬脚がちらちら見えるものなんです。
人種差別なんかもそうですね。「ぞっとする」とかを「生理的嫌悪感」にすりかえて、「差別意識は克服不可能」とか言いたがる人たちはイデオロギーのトリコってわけです。イデオロギーはよく「生理的なんちゃら」に姿を変えるんで、気をつけないといけません。
近年の例だと、なんだろう。
「給食費を払ってない人がいる!!」てのがありました。
落ち着いて考えりゃこんなのは個別に対応してりゃいいことで、口角泡を飛ばして社会悪のように糾弾するようなことじゃありません。
じゃあ、なんであの時みんなあんなに怒ったのか?ぼくもわたしもとなりのおくさんも怒ったのか?テレビでゆーめーなせんせいも怒ってたのか?
それは
「貧乏人が楽することなんてあってはならない」
というイデオロギーに支配されていたからです。
ここでやっと前回に繋がりました。
そうです、
「労働者のちょっとした贅沢も非難すべきもの」
てやつですね。
現代において、「経済」が「イデオロギー」になっている、てのはこういうことです。
そしてそれは、経済学者達にとって大きな誤算でもありました。
だって、経済的思考をまったく欠いた「人間」という対象を、自然物のように観察することで経済学は社会「科学」の女王たり得ていたんですから。対象物もまた同様の観察的視点を有しているのなら、そんなものを「客観的」に見ることなどできるでしょうか。これはハイゼンベルクの不確定性原理よりもゆゆしきことです。
アダム・スミスは
富の段階がこれ以上ないほどの高さに達した国では、労働の賃金も資本の利子もきわめて低いはずだ。仕事を得るための労働者間の競争は激しく、給料は労働者 の数を維持できるギリギリの額に引き下げられる。そして、その国の人口はすでに上限に達しているから、それ以上増えることはないはずだ。
と『国富論』に書き付けました。
これは逆説的に「富の段階がこれ以上ないほどの高さに達」する国なんかないだろ、ってことです。(『国富論』では「もしかしたら昔の中国はそうかも」なんて書いてますが、妄想の域を出てません)
絶対不可能なユートピアを目標とし、そこから逆に透視することで現在を分析する、てのは社会科学ではよくある手法です。
ただ、この「手法」がイデオロギーとなり、観察対象に内在化されたならどうなるでしょうか。
そう、学問は学問の装いをしたまま、内実はイデオロギーに成り果ててしまいます。
だから経済学者は、「少子化」に対してなんの手も打てないんですね。
だってそれが自分らの最終目的(テロス)なんですから。
「哲学の最終目的(テロス)は哲学の破壊である」と、これもまたアルチュセールが言ってますが、一足先に経済学がそれをなしつつあるようです。さすが女王様。
さて、Part3は……しばらくお待ち下さい。ちょっと読まなきゃならん本もありますんで。
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