真に本を焚くものは火でもなく兵器でもなく……

 昨日のエントリーで、『華氏451度』にふれたので、「本を焚(ヤ)く」というのはどういうことか、少しメモしておこうと思う。

 最近読み返した『吾輩は猫である』にちょっと興味深い話が載っている。

 苦沙弥先生の妻が、夫からこんな話を聞かされたと迷亭に語っている部分だ。(原文は段落がないが、読みやすくするためにあらためた)

 

 ……

 

 「その王様のところへ一人の女が本を九冊持って来て買ってくれないかと言ったんだそうです」

 「なるほど」

 「王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高いことを言うんですって、あまり高いもんだから少し負けないかと言うとその女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべて焚いてしまったそうです」

 「惜しいことをしましたな」

 「その本のうちには予言かなにかほかで見られないことが書いてあるんですって」

 「へえー」

 「王様は九冊が六冊になったから少しは価(ネ)も減ったろうと思って六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通り一文も引かないそうです、それは乱暴だと言うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。王様はまだ未練があったと見えて、余った三冊をいくらで売ると聞くと、やはり九冊分のねだんをくれと言うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても代価は、元の通り一厘も引かない、それを引かせようとすると、残ってる三冊も火にくべるかもしれないので、王様はとうとう高いお金を出して焚け余りの三冊を買ったんですって……」

 

 ……

 

 会話中の「王様」とは、王制ローマ最後の王、タルクィニウス・スペルブス(小説の中ではタークヰン・ゼ・プラウド)のこと。この三冊には後のローマの命運が記されていた、ということになっている。

 このように「焚書」という行為は本来、書物の価値を逆に高めるものである。

 焚書坑儒の後、儒教は中国だけでなく東アジア全域に広がり、多大な影響を与えた。

 ナチスは数多の社会主義文献を焚いたが、かえってその需要を高めただけだった。

 真にその書の価値を無くしたいのであれば、逆にただでばらまいてその本に「あきあき」させればいい。それこそが真の意味での「焚書」というものだ。

 そう、電子書籍というものは、それが可能なのだ。

 やがて、知らず知らずのうちに、数多の書籍が焚かれることになるかもしれない。しかし人々はそのことに気づかず、かえってそれを賛嘆するだろう。

 

「ローマのある種の人々は、毒を嫌うように学問を嫌い、図書館は墳墓のように永遠に閉ざされるべきであると考えている」

(アミアヌス・マルセリヌス)

 

 

 

 

焚かれた詩人たち―ナチスが焚書・粛清した文学者たちの肖像