焚書する者という古本屋のもう一つの顔

『7つの習慣』S.R.コヴィー

『脳内革命』春山茂雄

『美貌の女帝』永井路子

『「思いやり」の心理』加藤諦三

『壜詰めの恋』阿刀田高

『女たちの家』上下 平岩弓枝

『ひとり身ポッチ』桃井かおり

『全日本食えばわかる図鑑』椎名誠

『午後の死』森瑶子

『霊合星人の運命』細木数子

『天王星人の運命』細木数子

『木星人の運命』細木数子

『あさっての風』三浦綾子

『男の顔は「領収書」』藤本義一

 

 以上、本日をもって廃棄処分とする。

 

…………

 実はこれらの本、昨日買い入れたばかりなのだ。(少額だが一応お金を払っている)

 持ち込んできたお客様は「ゴミに捨てるのは忍びないので」とおっしゃっていた。

 こちらも好き好んで棄てるわけではない。そうしていかないと、店が立ち行かなくなってしまうのだ。

 比良木屋は開業以来、「買取はほぼ断らない」「持ち込まれた本についてはすべて引き取る」ようにしている。だがこれ、経営のアレコレからするとまったくだめだめで、ちゃんと儲けようと考えるなら、「不要な本は客の背中に縛り付けてでも持って帰らせなきゃダメ」なんだそうだ。極端なたとえだが、そのくらいの覚悟を持ってやらなきゃいけない、ということだろう。残念ながら、そこまでの覚悟は持てていない。

 

 本を処分することは、古本屋の重要な仕事の一つである。

 価値の喪われた本を廃棄することで、「本の価値」を保つのだ。

 そうして保たれた「本の価値」は、永続的な「書物の価値」となり、文化の背骨となる。

 では、貴重な価値ある本が間違って焚かれてしまったことはないだろうか?

 それは本末転倒な疑念で、そういうことがないように「古本屋」というものが存在する。

   そう考えてみると、以前のエントリーでとりあげた『吾輩は猫である』の話に出てくる女は、史上最初の古本屋かも知れない。

 

 

…………

 

 「その王様のところへ一人の女が本を九冊持って来て買ってくれないかと言ったんだそうです」

 「なるほど」

 「王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高いことを言うんですって、あまり高いもんだから少し負けないかと言うとその女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべて焚いてしまったそうです」

 「惜しいことをしましたな」

 「その本のうちには予言かなにかほかで見られないことが書いてあるんですって」

 「へえー」

 「王様は九冊が六冊になったから少しは価(ネ)も減ったろうと思って六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通 り一文も引かないそうです、それは乱暴だと言うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。王様はまだ未練があったと見えて、余った三冊をいくらで 売ると聞くと、やはり九冊分のねだんをくれと言うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても代価は、元の通り一厘も引かない、それを引かせようと すると、残ってる三冊も火にくべるかもしれないので、王様はとうとう高いお金を出して焚け余りの三冊を買ったんですって……」

 

…………

 

 賭けてもいいが、この九冊、全部同じ内容だろう。

 「焚書」というものは、そういう意味合いもあるものなのだ。