本を焚くとかえって本が保全されてしまうという例

 1933年5月10日水曜日。ゲッベルスの命により、ベルリンで焚書の儀式が執り行われた。

 式次第はベルリン大学によって構成され、午後11時からオペラ広場でオペラの様式をもって進行した。

 ナチス学生と教職員らがともに行進し、手に掲げた松明を中央で燃え盛る篝火の中へ次々に投げ込み、そうしてから二万冊を越える書物が学生の手から手へと渡され、炎の中へと投じられた。

 燃やされる“非ドイツ的書物”(undeutsche Schriftmaterial)は九つのカテゴリーに分けられ、一つのカテゴリーの本が焚かれるごとに、学生の代表がそのカテゴリーの書物に反対するスローガンを朗読した。

 たとえば、最初にマルクス主義の本が焚かれる時は、

「階級闘争や物質主義と闘い、民族共同体(Volksgemeinschaft)と理想的生活様式(idealistische Lebenshaltung)を守るため、我々はマルクスやカウツキーの著作を炎の中に投げ入れるのだ!」

 という具合に。

 

 四番目には、フロイトの著作が焼かれた。

「魂を崩壊させる本能生活の重視と対決し、高貴な人間精神を守るために、我々はジグムント・フロイトの著作を炎の中に投げ入れるのだ!」

 

 儀式の話を耳にしたフロイトはこう言った。

「たいした“進歩”だ」

 そして、こう続けた。

「中世なら彼らは私自身を燃やしたことだろう。現代では代わりに本を燃やして満足しているというわけだ」

 

 

 やがてフロイトはドイツにいられなくなり、亡命することになった。

 出国に当たっては多額の亡命税を納め、持ち出される手荷物の量、書籍の数も限定された。しかし、他の亡命者がほとんど着の身着のままだったことを考えると、破格の待遇だったと言える。

 が、かなりの蔵書を置いていかざるを得ず、それらはナチによって処分されるであろうことは火を見るよりも明らかだった。

 それらの書籍を引き継いだのは、ウィーンの書籍商ハインリヒ・ヒンターベルガーだった。

 書籍は800冊以上あり、「きれいな本を全部持っていってしまったので、私は泣きそうになりました」と、メイドのパウラ・フィヒトルが回想している。古書売買にはつきものの、何処も同じ光景だ。この「800冊」という数は少なく思えるが、これはメイドの記憶なので、おそらくこの三倍はあっただろう。経験的に、読書習慣を持たない人は本の冊数を少なく数えがちなものなのだ。

 

 一年後、ヒンターベルガーは、ニューヨーク精神医学研究所のジェイコブ・シャツキー博士に書籍を売却する。研究所の購入費は1850ライヒスマルクだったという。なおこの値段、同時期に売買されたフロイトの骨董コレクション(ほぼがらくた)が3万ライヒスマルクだったことを考えると、破格の安値だったと思われる。

 

 またフロイトは。この機に貯め込んでいた資料やメモの大部分を整理してしまおうと考えた。ところが選別して屑入れに放り込んでおいたところ、マリー・ボナパルト公妃が隙をみて部屋に入り、捨てた資料等をスカートの中にねじ込んで公使館へと運んでいってしまった。それらはウィーン駐在のギリシア公使により、外交官特権に守られた便でパリへと送られた。

 

 実は、蔵書にしろ資料にしろ、フロイトは死ぬ前にそのほとんどを処分しようと考えていたらしい。

 ナチスの弾圧がかえってそれらを保護し、後世に残されることとなった。

 

…………

 

 ついでに、最後に登場したマリー・ボナパルトは、ナポレオンの甥の孫。夫のジョージ(ゲルギオス)公はギリシャ公にしてデンマーク公、そしてロシア皇帝ニコライ二世の従兄弟でもある。マリーは正真正銘の公妃でありながら、精神分析家としてフロイトに師事し、フランス精神分析学会を設立した。