どうしてただの一般人が『ラスト・エンペラー』に感情移入できるのかということについてのメモ

 ピーター・オトゥールが引退宣言だそうです。

http://www.guardian.co.uk/film/2012/jul/11/peter-otoole-irish-actor-retires

 一瞬死んだのかと想いましたが、違いました。

 

 団塊の世代の方々だと、なんといっても『アラビアのロレンス』が一番ということなんでしょうが、それよりやや下がった世代には『ラスト・エンペラー』の家庭教師、ジョンストンの方が印象に残っていますね。

 で、『ラスト・エンペラー』の話です。

 

 アカデミー賞9部門(だっけ?)独占で、坂本龍一は一躍世界にその名を知られました。日本の役者も大勢出てるし、ジョン・ローンだし、ベルトルッチだし、映画館がいっぱいになっても不思議じゃないんですが、それにしてもこんな長い映画、よくまあ皆あきずに観るよなあ、と。ウチの妻なんか上京したての頃、映画館に三回上映分「居続け」したそうです。迷惑な。

 

 浅田彰が「旧家のボンだった淀川長治が感動するのはわかるけど、なんで一般人がこの映画に感動できるの?」といかにもなコメントをしていました。自分が感動しなかったからって、そりゃねーでしょ。あんたはゴダールだけ見てなさいよ。と言いたくなるのはやまやまかわかわなんですが、でも言われてみりゃあそうだよなあ、と。しかも溥儀ってば、そんな英雄的な活躍するわけでもなく、ぶつくさもさくさやってるうちに、どんどん状況に流されてるだけですからね。普通のヒロイックでファンタジックな「王様」ものとは全然違う。

 

 溥儀は叫びます。

「外へ出たい!」

 そしてやっと外に出られたと思ったら、そこは話に聞いていたのとはまるっきり違う世界で、散々利用されてエライ目に遭って、刑務所に繋がれた挙げ句やっとこ普通の老人になります。

 なんか、こうやって書くと、「普通の人」みたいですね。

 みたいというか、溥儀は「普通の人」なんです。だから感情移入できるわけです。

 

 昔、学校というところは、とにかく生徒を外に出しませんでした。外の世界に触れさせないように必死でした。まあ、ほっときゃどんどん出てっちまうし、外の情報は知らん間に生徒どもに浸透しちまうんだから、出来る限り囲っとくのが正しいんだ、という認識だったんでしょう。が、それは濃密な地域共同体というやつがまだ機能していた頃の話で、高度経済成長が一段落したあたりから、どうも妙な具合になってきたんですね。

 とくに「言うことを良く聞く素直ないい子」にとっては。

 言うこと聞いてじっとしてればほめてはもらえるけど、どうも外の様子は親や先生が言ってるのとは違っているようだ。学校の成績がどんなに良くても、それにプラスαが必要みたいだ。そしてそのプラスαは学校の中にいる限り見えてこない。見に行ってみたいけど、出してもらえない……

 

 実際の溥儀はどうだったかしりませんが、映画の溥儀は優等生です。弁髪を切ったりあれこれ反抗もしてみせますが、全て裏をかかれます。外に出れば出たで、自分の甘ちゃんさ加減はとっくに見透かされていて、いいようにもてあそばれてしまいます。

 「いい子」もそうですね。学校の成績は良かったかもしれませんが、とにかく世間に出ればそんなのは通用しない。「勉強」に比べれば、「世の中」はデタラメで嘘ばっかりです。

 元「素直ないい子」ほど、この映画に深く感情移入するのではないでしょうか。

 イデオロギーで目が曇ってる浅田氏をのぞいて、元「いい子」もしくは「いい子でいたかった人」がこの映画に「感動」するのはあたりまえでしょう。

 自分のつまんない人生、つまんないなりに起伏があってそれなりに傷ついたりする人生が、過剰に拡大された歴史上の物語として、派手に装飾されて再現されているのですから。

 

 ちなみに、私はがれきの中で満州国皇帝に即位するシーンと、ラスト近くの紅衛兵の女の子のへんな歌と踊りが大好きです。特に踊りは隠し芸にしてたんですが、さすがにもう忘れちゃいました。