ハイデガーについて今さらながらのメモをいくつか

○ハイデガーは、1933年5月10日にドイツ各都市て行われた「焚書」について、まったく意に介さなかった。

 

○1933年12月、ゲッチンゲン大学のナチス教授会において、ハイデガーは同僚の教授の一人がユダヤ人と「密接な関係」を持っている、と密告した。

 

○ハイデガー自身は、ハンナ・アーレントと愛人関係にあった。アーレントはハイデガーの教え子で、ユダヤ人である。

 

○1936年、ハイデガーはローマで、亡命中の弟子カール・レーヴィットに偶然出会った。レーヴィットはユダヤ人で、ドイツにはいづらくなっていた。ハイデガーはナチスの党員証をみせびらかし、国家社会主義の綱領に対する支持を自ら再確認した。

 

○レーヴィットは戦前、東北大学で講義を持っていたことがある。

 

○ハイデガーは1930年、突如としてフッサールと関係を絶った。かつて『存在と時間』の初版の献辞を捧げた恩師に対して、病気中も一切連絡せず、葬儀にも参列しなかった。1941年、『存在と時間』第四版からは、フッサールに対する献辞は削除された。

 

○1945年4月25日、フランス軍がフライブルグ制圧。ハイデガーは典型的なナチス党員と見なされて、自宅は占領軍の接収リストに登録されていた。

 

○啓蒙主義と現象学の流れを汲む自由合理主義について、ハイデガーは決定的に絶縁した。それは『存在と時間』を出版した翌日のことだとされている。彼はそれ以来、作品の主要部分を「不吉な帝国」を否定することに割いた。「不吉な帝国」とは、科学・技術・進歩の理念が作り上げる、現代理性の三つの大きな偶像のことである。

 

○「科学は考えない」

「地球の荒廃は、形而上学の結果以外の何ものでもない」

(byハイデガー)

 

○ハイデガーのフランスにおける成功は、1955年ジャン・ボーフレとコスタス・アクショロスによって、スリジー=ラ=サルにおいて開催された、「ハイデガーに捧げられた十日間」が契機となった。サルトルとメルロ=ポンティはこれを拒否。ハイデガーはここでルネ・シャールに再会し、ボーフレの紹介でジャック・ラカンと数日を過ごしたりした。

 

○ラカンはハイデガーの実存主義に、サルトルにない悲劇的側面を見いだし、それがフロイトの実証主義的理論に、哲学的な「魂の追加」を与えることが出来る、とした。

 

○バカロレア(フランスの大学進学資格試験)のための読むべき哲学書公式リストに、ハイデガーが入っている。それに対して、ラッセルもヴィトゲンシュタインもカルナップもマルクーゼも入っていない。