「その答ならわかってる」つもりが改めて問われるとよくわからなくなるというのが素朴な疑問というものです

 「神は死んだ!」

 ニーチェの有名なセリフですが、実はこれ、ニーチェの専売特許ってわけでもありません。数百年前にルターが説教のたんびに口にしてたキメ台詞らしいです。あと、ヘーゲルも『大論理学』で「神は死体として横たわっている」と書いています。それから「神の首を切り落としたのはカント」とハイネが言ってますね。

 

 で、ここで素朴な疑問として、「神って『生きて』たの?」というのがあります。

 生死を超越したのが神なんでないの?その神が「死んだ」ってのは、あれかな、神が人間になったってことなのかな。あってますか?

 あ、キリスト教の「神」は日本の八百万の神やギリシア神話の神々とは別モンですんで。こっちの神はほいほい死にますからね。GODを「神」とするのは誤訳、と言われる所以です。ニュアンス的には「主」のほうが近いそうですが、そうするとまたややこしくなるし。

   まあ、「神は死んだ!」ってのは、逆説的に、「確かに神は『生きて』いた」という宣言にもなるわけで、やっぱりニーチェは牧師の息子だな、と思ったりもします。

 

 で、また素朴な疑問ですが、「仏は死んだ!」って言いませんよね。

「最初っから死んでるだろ!」とツッコミが入っちゃいそうですが、みんな「仏」ってのは死んでなるモンだって認識してるわけです。だから「仏は死んだ!」って、ギャグにすらならない。すべりまくりです。ここはあれか、「仏は生き返った!」とか……いかん、もっとひどいな。

 本当の仏教では死んでも仏にはなれないよ、というマジな話は置いといて、とりあえず仏を指していちいち「死んだ!」と叫んでも、明後日の方向に向かって矢を放ってるみたいで間抜けな感じにしかなりません。

 

 あ、死んで神になる人もいましたっけ。でも現代の日本人は、そういう「神」とキリスト教の神と、無意識に区別するように思考ができあがってるみたいです。でないと、「神は死んだ!」ってニーチェの宣言がもてはやされたりしませんわな。

 てか、日本人の場合、「神は死んだ!」ってセリフを見ると、在りし日の全知なる神の全能なる様が懐かしく思い出されるとか、むしろ「神が生きてた時代があったんだー」という場違いなノスタルジーのきっかけ作りにしかなってませんね。だって、生きてたことないし、神。

 

 禅宗で「祖に会うては祖を殺し、仏に会うては仏を殺す」って言葉がありますから、もう何百年も前にその段階はクリアー済みなんだよ、という言い方も出来るかもしれませんが、そういう話ではなくて、「なんで仏が『生きて』いたころを懐かしく思い出したりすることはないの?」ってことですので。あ、シッダルタが生きてた頃の話とかじゃないですよ。

 つまり仏はまだ生きてる、てことなのかな。だから日本は「仏教国」と呼ばれるんですかね。葬式くらいしか用がないのに。

 

 そしてさらに、もっと言われないのは「魂は死んだ!」ですね。なんかすべり方がどんどん大きくなってるようですが、気にしないでいきましょう。

 でも「神は死んだ!」という人でも、「魂の不滅」は結構信じたりしてまあすね。あれはなんででしょうか。トーマス・マンとか。

 別に神も仏も信じてなくても、なんとなく「魂は不滅」と、人は、ほんとになんとなく「思って」たりします。考えたりはしませんね。ただ思ってるだけ。

 「死後の世界なんか存在しない!」という人でも、「魂なんか存在しない!」とは言いません。いや、この場合「魂」の意味合いが違うんだ、とか言うかもしれませんが、違うとわかってて直、問いを立ててるわけで、そんなに理性や科学が大事なら「魂」だって否定できそうなもんなのに、なんかあんまりそういうことしないよな、ってことです。無神論という言葉はありますが、無魂論というのは聞きません。あ、無仏論もか。

 

 ちなみに、哲学者のベルクソンは死後の世界を信じてました。

 「科学が発達すれば、やがて死後の人々と会話できるだろう」とか、幽霊愛好サークルみたいなとこで演説したりしてます。

 

 

 

聖☆おにいさん(7) (モーニングKC)