そういえば「凡庸」とはなにか、とかはっきりしていない。
結局は「非凡ではない」ことが凡庸なのだろう。
またぞろ「否定の否定」になってしまったが、誰もが目を背けたがる社会の中核部分というのは、「否定」によって成り立っているのかも知れない。
凡庸であることは、つい三、四十年前まで価値が認められていたように思う。
それを認めていたのは、主に「上の方」からだった。
それがある日から、ばっさり「上の方」から切り捨てられた。
切り捨てられても、凡庸な人々は「凡庸」を切り捨てることを肯定した。
誰もがそこから逃げ出し、そこから目を背けて生きていきたいと考えたからだ。
凡庸を切り捨てるにあたって、いろいろな餌がまかれていた。
曰く「お前たちは優秀な民族だ」「この国は素晴らしい国で、その国に住むお前たちは素晴らしい人間だ」「他より勝るお前たちだけがつかみ取れる未来がある」
とかなんとか。
こういう餌は、パターンを変えつつ、世界中にばらまかれたいたように思う。
結局それは、自分の襟首をつかんで空中に引き上げようとするのに似ていて、地面でじたばたするだけに終った。
それでも長い間気づかず、笑顔でばたばたしてたみたいだが。いや、今もしてるのかな。
凡庸さに支えられながら凡庸を嫌ってやまない「自由」は、やはり飛べるはずがなかったのではないか。
マルハナバチは飛べないと言われつつも飛ぶが、「自由」は飛べないと皆が知れば、その浮遊力を失うだろう。
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