「もくとう」と言われて眼を開けていても何も見えはしないわけで

「アウシュヴィッツ以後、詩をつくるのは野蛮だ」とアドルノは言ったが、原民喜は被爆した後もいくつかの詩を残した。

 

水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

天ガ裂ケ
街ガ無クナリ
川ガ
ナガレテヰル
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼ケテ
フラフラノ
コノ メチャクチャノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ

 

 原は含羞之人で、編集者の元へ原稿を持ち込んだとき、奥さんに手を引かれるようにしてやってきたという。その姿は「母親につれられて先生に怒られに来た小学生のようだった」そうだ。妻が肺結核で死んだあと、疎開先の広島で被爆した。

 1951年、中央線西荻窪ー吉祥寺間で、線路に横たわって自殺。

 

 店に自転車で行くときは、吉祥寺から中央線の真下を通ってゆく。中央線の位置が変わっていなければ、自転車で走る途中のどこかで、原民喜は死んだはずだ。

 夜の中央線ガード下は、ほとんどが駐車場になっていて、夜中はよく警官が立っている。一度だけ自転車の登録を確認された。暑いときはビールを飲みながら走った。真冬に酔っぱらいが寝ていたのを起こしたこともあった。誰もいないのを慎重に確認して、歌いながら走ったこともある。My Wayや、American Pieなど。私はひどい音痴なので、もし聞いた人がいたらとんだ災難だっただろう。

 ♪This'll be the day that I die