桃を食べながら善意というものの働きについて考えたこと

 我が家に福島から桃が届きました。十個で4800円……うわあ、高級品。一個で牛丼特盛ほどの値段の桃を美味し美味しと頂戴しました。そういや最近はテレビでもCMやってますね。こうしたことは文句のつけようもなく良いことだし、皆どんどん桃を買って欲しいという妻の願いは全く正しいのですが、正しさに覆われて見えづらくなっている部分、というものがやっぱりあるわけです。

 

 どこから話したものかと迷いましたが、まずは思いっきりわかりやすい仮定から入ってみましょう。

 中国にもたくさんの原発が稼働しています。もし今、どこかの原発が事故を起こしたとして、どういう事態を招くでしょうか。まず、中国産の食物の一切が輸入規制されるでしょう。たとえその食品に、放射能検査をした証明書がついていて、その数値が0ベクレルであったとしても、日本の消費者のほとんどが手を伸ばさないでしょう。中国産の食物は、どんなに安くてもその競争力は大きく阻害されます。別にわざわざ言い立てなくても、毒餃子騒動の時を思い出せば自明のことではありますが。

 

 自由経済というのは比較優位を競うものであって、絶対的な価値と呼べるものはありません。ほんの少しの阻害要因があれば、比較的に優位な方へと経済は容赦なく流れていきます。

 そんな流れに身を任せていてはいろいろとマズいことになります。どんなにがんばっていても、ちょっとけつまずいただけでたちまち落ちぶれる、てなことが起こってきます。今回、福島はちょっとどころか、とんでもない事態が起きたわけで、それを皆で救けよう、というのは、何度も言いますが全く正しいことです。

 そして、「科学的」に考えれば、放射能など全く問題にならない数値なのだから、気にするべきではない、というのも全く正しい。

 

 ところがこの時、海を越えた別の国で起きた場合にあらわになることが、国内では「善意」によって見えなくなる。

 見えなくなること自体はかまいませんが、「見えないんだから無かったことにしよう」という人が現れた時、「見えない」ことを意識していないと、「無かったことにはならないよ」と上手く反論できなくなります。

 つまり、「科学的に見て、放射能なんか問題にならない。問題にならないんだから、原発事故なんて大したことじゃない。大したことじゃないんだから気にしなくていい。気にしなくていいから再稼働しよう。これからもどんどん増やそう」という主張に対して、善意によって何が覆われているのかきちんと意識していないと、反論しづらくなるわけです。

 

 「経済はインセンティブで動く」てのが最近流行りの経済学です。インセンティブで動くってのは、人間は「結局自分の利益だけ考えて動く」ということですね。

 じゃあ、経済学者に「多少の放射能を気にせず食品を購入することに、どんなインセンティブがあるか」と質問しても、はかばかしい答は得られないでしょう。

 だって、「善意」はインセンティブに反することなんですから。

 それはアダム・スミスの頃から一貫しています。

「いや、それだって他人から良く思われたいというインセンティブが働いてるはずだ」というひねくれ者もいるでしょうが、そういう情緒を排除するのが「科学的」な「経済学」なんですから、全く無意味ですね。

 つまり、「放射能」というのは、「経済」の方面から考えると、非常にマズい存在なわけです。

 

 昨今のネット上での原発賛成派の言論を見ていると、放射能に対しては「科学」で、原発に対しては「経済」で論を立てることが多いようです。

「放射能は科学的に考えてそんなに気にしなくていい」その通りですね。

「原発を稼働させた方がとりあえず経済にとっては良い効果がある」まあ、そうなんでしょうね。

 ここが逆になると、不利になります。

「放射能をバラまくことにどんな経済的メリットがあるか」ありませんね。

「原発は科学的にメルトダウンしないようになってる」しましたね。

 ただ、原発の方は、最近は経済でも旗色が悪いみたいですが。

【米GE イメルトCEO 原発“見切り”発言の衝撃度】

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD0607I_W2A800C1000000/

 

 こうしたジグザグが起きるのも、「科学」や「経済」にこだわり過ぎているからです。

 原発の是非については、科学とも経済とも離れた、少し別な判断が必要ではないかと考えています。

 それについてはまた次回に。