もしも本の無い世界へ行ったら………………

 もしも本の無い世界へ行ったら。

 別にファンタジックなことではない。たとえば私はベンガリー語が全く出来ない。いや、ベンガリー語に限らないけど、とりあえずこれを例に挙げる。だから、バングラディシュに行けば、そこは私にとって「本の無い世界」だ。

 

 文盲の人間にとっては、本なんか無いのと同じだ。日本は識字率の高い国として知られているが、江戸時代は漢文が素で読み書きできなければ文盲の扱いだったから、もし江戸幕府の侍がタイムスリップしてきたら、周り中文盲だらけで驚くことだろう。江戸時代の本を普通に読みこなせる人は、現代ではごく少数だ。私もかろうじて読本の類いがわかる程度なので、江戸基準で言えば文盲に分類される。

 

 そして、文盲でもなければ外国に行ったわけでもないけど、本屋と呼ばれるところにまったく足を踏み入れない人もいる。それでいて社会的に成功した人もいる。何の不足もなく幸せに暮らしている人もいる。そういう人と話すと、まるで異次元世界に足を踏み入れたような気分になる。私の母は、私の知る限りでは本を三冊しか読んだことがない。山口百恵の『蒼い時』と黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』と『プリンセス・ダイアナ写真集』だ。最後のを読んだと言えるかは微妙だが。母との会話は、私を常に異世界へと案内してくれる。

センス・オブ・ワンダー!

 

 【増える 書店ゼロの街】

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012081290070300.html

 日本にもどんどん「本の無い世界」が増えている。

 いや、需要がAmazonに移行しただけかも知れないが、街を歩いていて本屋が無い、というのは味気ないものだ。

 旅先でぶらっと本屋に入って、旅情のせいか普段読みもしない本をついつい買って、宿に帰って読みふけったりするのは楽しい。運転免許を取る合宿に行った時、バチンコ屋の隣の本屋で『ドンファンの教え』を買った。ネイティブ・アメリカンのスピリチュアルな教えという体裁で、眉唾っぽいけど魅力的な話が並んでいた。免許の講習を終え、宿を出る頃には全部読み終えていた。さかのぼって子供の頃、海水浴に行って、宿から少し離れたところにある掘建て小屋のような本屋で、よくわからない詩集を買ってしまったこともある。本は宿に忘れてきてしまったので、ずいぶん長い間誰の詩集だったのかわからなかった。最近になって、やっと田村隆一だとわかった。朝に天使を殺す、という文句をぼんやり憶えていたからだ。

 しかし、自治体も後押しするんなら、三省堂なんて大手じゃなくて、古本屋に声をかければいいのに。もうからなくてもすぐに撤退なんかしないし、大仰に支援なんかしなくても、ちょっぴり助けてくれれば、ひからびそうになりながら店を続けることはするんだから。

 

 すこし妄想する。

 もし世界で最後の一軒の本屋の店主になったら、どんな気分だろう。

 きっと、世界のほとんどの人間は、もはや本など必要とせず、本など無くてもいつもにこにこと平和に暮らしている。しかめ面をしているのは、本屋の店主ただ一人だ。

 もちろん客は来ない。ときどき興味深げに入ってくるカップルがいたりして、「本なんて不幸な人間が読むもんだよ」と幸せそうに立ち去る。

 

 本屋が無くなることになんの問題があるのか。経済的には当然、と語る人も少なくない。

 しかし、本屋が無くなる、ということのそこには、ひとつの嘘がある。

 まだ世界はそれほど幸福ではない。少なくとも、「身近に本が存在しない」という事態を受け入れられるほどには。