子供の頃、何度か繰り返し聞いた「戦時中の思い出話」がある。
次世代に語りつごう、というものではなく、なんとなく面白いのでときおり口にされる、という程度のものだ。
私の生家のすぐ近くには揖斐川が流れている。
太平洋戦争も後半に入って、その川にかかる鉄橋の守備隊が派遣されてきた。
兵たちは急造の掘ったて小屋を「兵舎」として寝泊まりしたが、将校たちは近所の一番大きな家に居候して、「官舎」の代わりにしていた。その居候先が、私が幼い頃過ごした家だった。言うまでもないが、私自身はまだ影も形も無い。
ある日のこと、祖父が子供に肩をもませようと、大きな胴間声を張り上げた。
「おーい、しょーこ!、しょーこー!!」
ショウ子という娘(私にとっては叔母)を呼んだのだ。
すると、二階にいた隊長さんがすっとんできた。
「はい、なにか御用でしょうか!」
てっきり「将校!」と呼ばれたと思ったのだ。
それからしばらくして、お定まりの空襲警報が鳴り響き、祖父母やその子ら(私の父と叔父叔母)といっしょに、「将校」たちも防空壕に逃げ込んだ。
爆撃機が上空を通過するにつれ、たまりかねたように祖父が喚き出した。
「ああ、もう、負けや負けや!こんな戦争負けに決まっとるわい!!」
将校たちは目を丸くした。
「ご、ご主人、お静かに。憲兵に聞かれたら大変ですよ」
「だいたいなあ、勝っとったらこんなとこまで敵の飛行機が来るもんか!!どたわけが!!」
……憲兵以前にあんたらが聞いてるじゃん、と時空を超えて将校たちに突っ込んでみたくなるが、祖父の人となりを知っていれば致し方ないと思える。
その家はもとは由緒ある庄屋のものだったそうだが、砂利の採掘業で一山当てた祖父が丸ごと買取ったのだ。一見、歴史と伝統を感じさせる屋敷だったが、中味が入れ替わっていた。祖父は禿頭で良く太っていて反っ歯で、いったん怒鳴り出すとなかなか収まらず、その迫力はヤクザもビビるほどだった。実際、祖父の会社には背中いっぱいに紋々を入れた「社員」がごろごろしていたそうだ。祖父自身は何も入れてなかったが。
また、「神やら仏やら、そんなもんがこの世にあるか!」と口癖のように言い、気に入らないことがあると、神棚を八つ当たりでたたき壊したりした。それから、小学生だった父が学校で「てんのうへいかはかみさまだ」と教わり、そのままを食事時に口にすると、「あほう、糞たれて屁ぇひる神さんなんぞおるか」と笑った。天皇陛下は偉い「人」だとは思っていたが、神様だなどとは考えもしなかったようだ。
そんな祖父も、戦後に勲五等をもらい、ほどなくして亡くなった。本人は「三等くらいはもらえるはず」と皮算用していたようだが。
以上は、ほとんど伝聞であり、私にはあまりピンとこない話だ。
なぜなら祖父は、私の目の前では、怒鳴るということをしたことがなかったから。
私の最初の記憶は、たぶん二歳か三歳の頃、祖父のあぐらの上に乗ってこたつで暖まっていたことだ。しばらくして祖父が「えれえわい(疲れるわい)」と私を膝から降ろして、別のところからこたつに入った。私はとことこ歩いていって、また祖父のあぐらに座った。
良く太っていた祖父の足は、ふかふかしてあったかくて、子供の私には一番気持ちがよかったのだ。
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