身を隠してもそれは無駄 ついには愛がやってくる

 今、一番「お高い」ものは何だろうか。

 おそらく、それは「孤独」だろう。

 

 いっさいの関わりを絶ち、孤独に生きようとするなら、まず相応の財産が必要だ。

 しかし、そんな財産があったら、周りがほっておかない。特に税務署の方々なんか、熱烈なラブコールを下さることだろう。たとえアンデスの洞窟にいようと、深海のポッドに住まおうと、必ず押し掛けてくるはずだ。

 

 貧しく、かつ「孤独」であることは可能だろうか。

 仏陀は一切の財産を持たず、「犀の角のごとく独りゆけ」と説いたではないか。

 だが、もう一方で、来るものを拒まなかった。仏陀にとって、財産を持たず独りであることは、全世界のあらゆるものを受け入れる、という表明なのだ。

 それは「孤独」とは違う、と多くの人は思うだろう。私もそう思う。

 

 そういえば、私は今まで「孤独」だったことがない。孤独を感じたことはあるが、今になって振り返ってみると、多感な若者の良くある青臭い思いこみに過ぎなかったことがわかる。これもきっと、多くの人がそうだろう。だいたい孤独を感じる時ってのは、甘えの裏返しでしかなかったりするものだ。公衆便所に駆け込んでことをすませた後、紙が無いのに気づくのと似たようなレベルの。

 

 ここで言いたいのは「人は島嶼にあらず」とか「人は独りでは生きていけない」とかではなくて、なんでそんなに「お高い」ものになってしまったのか、ということだ。

 少なくとも、昔はもっと身近なところにあって、皆がその甘い罠にはまらないように気をつけていた。今、そんな「危険」は都心の野良犬のように一掃されている。引きこもりですら、ネット上では大勢のトモダチとお話ししているご時世なのだ。

 

 たぶん、私は今能天気なことを書いている。

 今こうしている間にも、独りで、孤独に死んでゆく人はいるのだろう。だけど、それもまた「違う」ように思うのだ。死ぬことは、同時に孤独ではなくなることだからだ。

 

 さて、ここ数年で最も孤独だった贅沢ものは誰だろう?

 カダフィなんかが、けっこうあてはまるんじゃなかろうか。