芥川龍之介『蜘蛛の糸』はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にそっくりな話がでてくるわけだけど

 昨日の続きのようでいて全然違う話。

 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでいると誰もが気づきますが、途中で芥川龍之介の『蜘蛛の糸』そっくりの話が出てきます。

 ただ違うのは、お釈迦様が守護天使になっていて、地獄に堕ちているのは悪党のオッサンじゃなくてお婆さんで、蜘蛛の糸がネギになっている、ということ。これ、小説ではグルーシェンカが語る民話という体裁になっていて、おそらくドストエフスキーが若い頃にこの民話を採集したのだろう、と言われています。

 まあ、芥川には別ネタがあって、鈴木大拙が訳した『因果の小車』が元なんだ、というこということがわかってるんですが、じゃあ、芥川がカラマーゾフを読んでなかったかというと、英訳で既に読んでるんですね。『蜘蛛の糸』を書く前に。まぎらわしいったらありゃしない。

 芥川はこういうことがよくあって、今昔物語の翻案は周知のことですが、『河童』なんかもドイツのウンディーネ伝説が元になってます。

 

 で、何が言いたいのかというと、「芥川にはオリジナリティが足らない」とかいう高校生みたいな屁理屈じゃなくて、実はそこに芥川の凄みがあるということです。

 ちょっとラストを読み比べてみましょう。

 

 ドストエフスキーのは元が民話ですから単純です。

 

“お婆さんは火の海に落ちて、今も燃え続けています。天使は涙を流しながら帰っていきました。”

 

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 次の鈴木大拙訳の『因果の小車』は、かなり説教くさい。

 

“「(前半略)我執の妄念は尚ほ犍陀多の胸中に蟠(わだか)まり居たりしなり、彼は上の方に登りて正道の本地に到らんとする決定信心の一念に如何なる不可思議の力あるかを解せざりしなり、唯是信心の一念繊(ほそ)き こと蜘蛛の糸の如くなれども、無辺の衆生は悉く之に牽かれてこそは解脱の道に至るなれ、其衆生の数多ければ多きほど尚ほ正道に帰すること一層容易なるわけ なり、されど一たび我執の念に惹かれて「是は吾がものなり、正道の福徳をして唯われのみの所有ならしめよ」と思ふことあらんには、一縷の糸は忽ちに断滅し て汝は旧の我執の窟宅に陥らん、そは我執の念は亡びにして真理は生命なればなり、そも何をか称て地獄といふ、地獄とは我執の一名にして、涅槃は正道の生涯 に外ならず」
僧説法を了りたるとき瀕死の賊魁、摩訶童多は悄然として曰く「われをして蜘蛛の糸を採らしめよ、われ自ら務めて地獄の深坑より遁れ出でん」”

 

 

鈴木大拙全集〈第26巻〉因果の小車・翻訳小篇・支那仏教印象記・今北洪川・古代中国哲学史・私の履歴書

 

 で、芥川はこんな感じ。

 

“御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。”

くもの糸・杜子春(新装版)-芥川龍之介短編集- (講談社青い鳥文庫)

 

 ……いかがでしょうか。こうやってラストだけ取り出してみると、芥川の方は「御釈迦様、けっこうひどい」と感じませんか? 私なんかはこれ、実は子供に読ませたらまずいんじゃないか、ぐらいに思ったりします。

 でも、「極楽」というところが、けっこう地獄に対して「ひどい」ということ、その「ひどさ」によって「極楽」は成り立っているんだ、ということが伝わってきます。

 そして、誰もがカンダタにちょっぴり同情してしまいます。

 ドストエフスキーと『因果の小車』では、ちょっとそういうことは考えづらい。まあドストエフスキーは、全然テーマが別なんだからかまいませんけどね。

 

 芥川は今昔物語を元にしたものでもこうした「深化」があって、些細な変更だけで原話よりずっと深いものにすることに成功しています。こういうのは「ストーリーがすべて」の人にはよくわからないでしょうし、翻訳したらもっとよくわからなくなるのではないでしょうか。

『蜘蛛の糸』は英訳されているんですが、もしそういうことが伝わってなくて、「ドストエフスキーのパクリ作家」みたいに芥川が思われてたらやだなあ、という懸念があるわけです。いらぬ世話かもしれませんが。