『失われた時を求めて』4花咲く乙女たちのかげにⅡから気になった部分をメモ

失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫)  

 

……同一の美徳がやたらいろんな人間に認められるのに劣らず驚嘆すべきは、個々人に特有の欠点がきわめて多種多様であることだ。「この世でもっとも広く行きわたっているもの」は良識ではなく、たしかに善意であって、どれほど辺鄙な片田舎にも善意が自ずと花開くのを目の当たりにして人は驚嘆する。それは人里離れた谷間に咲くヒナゲシが、他のヒナゲシなど一度も見たことがなく、そのひとりぼっちの赤い頭巾を時々震わせる風しか知らなくても、やはり世のヒナゲシと同様に咲いているのを想わせる。この善意は、たとえ利害がからんで麻痺し行使されなくてもやはり存在はしており、例えば小説や新聞を読んでいるときのようにいかなる利己的動機にも妨げられないときに花開くもので、かりに実人生で殺人を犯した人でもその心のうちに連載小説の一愛読者としての優しさを残しているから、花開いたその善意は、弱い人へと、正しい人や虐げられた人へと向かうのである。しかし美徳の類似にも劣らず感嘆すべきは、欠点の多様性である。どれほど完璧な人にも、他人を不快にしたり激怒させたりするなんらかの欠点がある。すばらしく聡明で、なにごとも高い見地から考察し、けっして他人の悪口を言わない人でも、そもそも自分が預かろうと言い出したきわめて重要な手紙をポケットに入れたまま忘れてしまい、その結果、相手の大切な待ち合わせをふいにしておきながら謝りもせず、にやにや笑っている、それというのも時間にルーズなのを自慢の種にしているからだ。べつの人は、繊細にして温厚、細やかな気配りをする人で、相手のことに関してはその相手が嬉しくなるようなことしか言わないけれど、黙して語らぬ心中にはまるで別の辛辣な想いが秘められているのが伝わってくる。しかも相手に会うのを非常に楽しみにして放さないから、相手はへとへとに疲れてしまう。さらにべつの人は、ずっと誠実というべきか、体調を崩して会いに行けなかったと詫びた相手に、あなたが芝居にいらっしゃるところを見かけた人がいてお顔の色は悪くないと思ったそうですよとか、ご尽力は充分に活かせなかったが他の三人が同じく一肌脱いでくれることになったので、たいしてお世話にならずにすむとか、そんなことを相手に言わずにはいられない。これらふたつの状況でも、黙して語らぬ友人なら、相手が芝居に出かけていたことや、別の人たちも同じく一肌脱いでくれたことには触れないだろう。ところがいま述べた友人は、相手をもっと困らせることをくり返したり暴露したりせずにはいられず、おまけに自分の率直な物言いにつけあがって、断固とした口調で相手に「私はこんな人間なんです」と言う始末である。べつの人たちは、極端に好奇心が強いか、あるいは好奇心をまったく欠いてどんなに世間の耳目をひく時件のことを話してもさっぱり見当もつかないかで、相手をいらいらさせる。またべつの人たちは、相手から来た手紙に相手に関することしか書かれておらず自分への言及がないと何カ月も返事を寄こさない。あるいは、頼み事があるので会いに行くと言われた相手が行き違いになるのを恐れて外出を控えているのに、やって来ずに何週間も待たせる、というのも自分の手紙では何ら返事を求めないでおきならが相手から返事がないのできっとへそを曲げたものと想いこんでいたのだ。ある人たちは、相手の都合などお構いなしで、自分の勝手だけを考え、陽気な気分の時には相手に口を挟ませずにしゃべりまくり、相手がどんなに緊急の仕事があろうと平気で会いたがる。ところがその人たちも、天候や機嫌が悪くて疲れていると、いくら誘いかけても一言も口をきかなくなり、相手のいかなる努力のも生気のない無気力で応えるだけで、相手の言うことは耳に入らないのかうんともすんとも応えない。われわれの友人にはめいめい多くの欠点があるのだから、そんな友人を愛し続けるには━━━友人の才能や親切や優しさに想いを馳せて━━━、そんな欠点を忘れるようにするか、むしろわれわれの善意を出し尽くしてそんな欠点を斟酌しないようにするほかない。ところが遺憾なことに、友人の欠点を見まいとするわれわれの寛大すぎる根気の良さも、その友に見る目がないためか、それとも他人には見る目がないと想いこんでいるために、あいかわらず欠点から抜け出せないその友人の根気の良さにはとうてい太刀打ちできない。友人にはその欠点が見えていないのか、他人にはその欠点が見えないと想いこんでいるからだ。他人の機嫌をそこなう危険は、よしとされたのか気づかれなかっただけかを推し量る困難さに由来することが多いので、用心して少なくとも自分のことはけっしてしゃべらないようにすべきであろう。自分のことを話題にすると他人の見解とわれわれ自身の見解とはけっして一致しないのが確実だからである。他人のほんとうの生活、見かけの世界の背後にある現実の世界を発見する驚きが、一見なんの変哲もない家を訪ねたところ中には財宝や鉄梃や屍体が詰まっていると知るときの驚きと変わらぬとすれば、それに負けぬ驚きを感じるのは、他人がわれわれの面前で言っていたことに基づいて作り上げた自分のイメージではなく、われわれがいないときに他人がわれわれのことを話していることばを通じて、われわれ自身とわれわれの生活について他人がどれほど完全に異なるイメージをいだいているかを知るときである。そんなわけで、われわれが自分のことを語るたびに、こちらのあたりさわりのない慎重なことばを相手がうわべは礼儀正しく見かけはなるほどという顔で聴いてくれても、そのことばが相手をおそろしく激怒させたりとんでもなく嬉しがらせたりすることは避けがたく、いずれにしても当方にはきわめて不都合な解釈をひきおこすと考えておいて間違いない。なんら心配の必要がない場合でも、われわれ自身に関する考えとことばのあいだには食い違いがあり、それが相手をいらだたせる。その食い違いゆえ、自分自身に関する本人の言い分はたいてい滑稽なものとなり、音楽愛好家をよそおう人たちが好きな節を口ずさみたくなったとき、おのれの不明瞭なつぶやきの欠陥を補おうと盛んに身振りを交え感心しきった顔をしても、聴かせられる声につり合わず滑稽になるのと同じである。自分のことと自分の欠点を語るという悪しき習慣に加えて、それと一体をなすもう一つの習慣、ほかでもない自分の欠点と共通の欠点が他人にもあることを暴く習慣がある。ところで人が他人の中の自分に似た欠点を話題にするのは、それが自分のことを遠回しに話す一つの方法であり、それによっておのれの欠点が赦される歓びを味わえるうえ、告白する歓びもつけ加わるからだ。そもそもわれわれの注意はつねに自己を特徴づけているものに向けられていて、他人の特徴についても何よりもそうした特徴に目が向けられる。近視の男は、べつの近視の男について「だってあの男は、ほとんど目を開けられないぐらいですよ」と言う。肺病患者は、どれほど頑健な人の健全な肺にも疑念を差し挟まずにはいられない。不潔な男は、他人が風呂に入らないことばかり口にする。体臭の強い人は、人は嫌な臭いがするものだと言い張る。寝取られ亭主は、いたるところに寝取られ亭主を見る。身持の悪い女は、どこにでも身持の悪い女がいる言う。スノッブは、どこにでもスノッブがいると言う始末である。そのうえどの悪徳も、どの職業もそうであるように、特殊な知識を要求し発展させるもので、人はそんな知識をひけらかすのに悪い気はしないものだ。倒錯者は他の倒錯者をかぎつけるものだし、社交界に招待されたデザイナーは相手とひと言も交わさないうちから早くも相手が身につける服地を値踏みし、指で触って品を確かめたくてうずうずしている。しばらく言葉を交わした相手が歯の専門家なら、忌憚のない意見を求めるとたちどころに虫歯の数を言ってくれるだろう。その専門家からするとそれ以上に重要なことはなにもないのだが、その専門家の虫歯に気づいたこちらからするとそれ以上に滑稽なことはない。それにわれわれが他人には分別がないと思うのは、なにも自分のことを語る時だけではない。われわれは他人には分別がないとの前提でさまざまな行動をしているのだ。われわれひとりひとりには特別な神がついていて、その欠点を本人から隠すか他人の目には見えないと保証するかしてくれる。その神は、身体を洗わない人たちの目と鼻孔を閉じて、耳の留まっている垢の筋も見せなければ腋の下に残る汗の臭いも感じなくしたうえで、ともに社交界に持ち込んでもだれも気づかないから平気だと信じこませてしまう。模造真珠を身につけたり贈りものにしたりする人たちは、それが本物だと思ってもらえると信じこんでいる。……(P.224~230)

 

 うーん、プルーストと友人になる人はたいへんだ。

 岩波文庫版、吉川一義訳の『失われた時を求めて』は現在四巻まで刊行されている。

 これまでの訳の中でも、格別に読みやすいのでおすすめです。