♪強ければそれでいいんだ〜
♪力さえあればいいんだ〜
「弱肉強食」ときいて「焼肉定食」を思い出さない人でも、なんとなく頭に浮かぶのはシマウマにかぶりついてるライオンとか、そんな絵図だと思う。
ねえ知ってる?ライオンはちゃんと自分より弱そうなシマウマを選んで襲うんだよ?まだ子どもだったり、病気だったり、ケガしてたりとかそういうやつを。でないとヘタに反撃食らってあばらの一本も折った日にゃ、自分がハイエナの餌食だからね。シマウマはライオン食べないけど。
それからライオンってわりと狩りがヘタクソで、しょっちゅう失敗するんだってさ。幼い君たちの夢を破ってごめんね。でもそれがイイ歳したおっさんに天が与えた使命なんだ。
「弱肉強食」というのは、事実でもなければ真理でもない。でもそれを「真理」だと信じたい人は、太古の昔からたくさんたくさんいた。
だから、大昔の「競技」ってのは最初から勝つ方が決まっていた。
「えー、それって八百長じゃーん?」というのは現代の感覚。民主主義でみんな平等に権利が与えられてからのもの。
古代ギリシャの戦車(馬車の凶悪バージョンみたいなやつ)の「競争」は、やる前から順位がわかってた。「それって、やる意味なくない?」と思うが、昔の人にとってはそれがとっても重要だった。だって、そうすることで「真理」を確認できたから。
「強いものが必ず勝つ」という「真理」が。
だからチャンピオンが、夫婦喧嘩でかみさんが投げた花瓶が肩にあたって骨折したりとか、ビールとワインと冷やし飴を2リットルずつ飲んだら腹がおかしくなったとか、十年も片思いしてたあの子を他の男にとられて超がっくしとか、そんな理由で本調子が出なくてもちゃんと「勝てる」わけ。なぜなら、みんなが「チャンピオンは強い」と信じてるから。
みんなが信ずる真理を、改めて確認するために「競技」は存在する。
なんか古代のオリンピックって、参加することにしか意義はないみたいだね。
ミシェル・フーコー講義集成13 真理の勇気:
コレージュ・ド・フランス 講義1983─1984
……てなことをフーコーが講義で語ってるんだけど、こういうことを知ると、なんで日本の相撲が「前近代的」な「国技」なのかよくわかる。
でも八百長騒動で叩かれまくった時、誰も大相撲を有効に弁護できなかった。そりゃそうだ。あんなケータイメールでちまちま「生活のため」に八百長してるやつなんか、誰も弁護なんかしたくない。でも、非難されるべきはちまちま「ビジネス」をやってた力士であって「大相撲」じゃない、相撲の八百長は八百長じゃなくて、えーと、なんつーか、そのー……という感じでまったく歯切れが悪かった。内田樹氏とかは「何かが失われる」「失われたら戻らない」なんて思わせぶりにつぶやくだけ。
簡単に言えば、相撲ってのは「やっぱ横綱強ええな」という「真理」を確認するための「儀式」なわけ。だから番狂わせが起きると座布団が飛ぶ。
多かれ少なかれショー化された「格闘技」や「スポーツ」にはそういう側面が残っていて、なんでそんな前近代的な「気分」が残ってるかというと、「弱肉強食」を「真理」として信じたい人が一定数残ってるから。
そして、相撲はその需要にずーーっと応えてきた。
それのどこが悪いの?
しかしまあ、「弱肉強食」が「真理」なのは、そういう「儀式」の中だけであって、現実はもっとシビアだ。「強いものが必ず勝つ」ほど、世の中はロマンチックにできていない。でも、そういう「真理」や「ロマン」をいい歳して信じてる人を時々見かける。そしてそういう人たちは、現実を無理矢理そっち側へ合わせようとしたりする。
といっても、「弱肉強食」じゃなくて、もっと別な言葉に言い換えてるけどね。
「努力した者が報われる社会に!」とか、なんかマイルドな表現になってるけど、中味の幼稚さは同じ。
「努力しても必ず報われるわけじゃない」とクリシュナムルティが言っている、と河合隼雄が言っていた。クリシュナムルティって誰?ま、いいけどさ。 だいたい「努力すれば報われる」ってのは、努力してる人間が努力してる真っ最中にだけ口にするのが許される修験道の題目みたいなもんで、ママから多めにお こずかいをもらってるような連中が口にしていいセリフじゃない。そんなのは餃子の王将のバイトだって知ってる。いわば日本の常識だ。
「弱肉強食」はわかりやすすぎるから、言い換えてスローガンに掲げるとみんなほいほい賛同する。
「強いアメリカの復活!」てのもあったなー。
ドラえもんにお願い。
どうかタイムマシンで、カビくさい「真理」を現実に持ち込もうとする連中を太古の昔へ送り返して下さい。
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