寛政年間の「子ども手当」

 いきなりですが、江戸時代に松平定信と言う老中がおりまして、後に「寛政の改革」と呼ばれる政治を致しました。これ、私が子供の頃までは評価が高かったんですが、80年代くらいから逆転してひどい悪政と言われるようになりました。

 逆に評価が上がったのが田沼意次ですね。

 当時の江戸を「自由化」して、経済を活性化させようとした、と言われています。

「白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりの田沼恋しき」

 なんて狂歌も有名です。

 近年の田沼アゲ定信サゲは、定信がみっともないくらい田沼批判をしたことへのペナルティがあるとはいえ、ちょっとやりすぎなんじゃないかなあと思って少し書いてみます。

 

 さて、現代も「地域間格差」ってのが問題になってますが、実は田沼政権下でもこれがかなり問題になってました。

 とにかく闇雲に「自由化」したもんだから、どんどん江戸に一極集中しちゃったんですね。経済だけでなく、若年人口まで集中したもんで、地方の天領(幕府直轄領)なんかは農業従事者の高齢化が深刻になったりします。こういうのは今に始まったことじゃないんです。

 そこで田沼意次を追い落とした松平定信がやったのが、地域経済の振興です。

 いわゆる「悪代官」をリストアップして罷免し、代わりに自分が選んだ人間を派遣しました。

 中でも成功したのが陸奥白川郷塙に派遣された寺西封元(てらにし・たかもと)です。

 百姓たちの生活を助けるため、低利の融資、種もみの管理、農具の貸出しなどを行いつつ、人口の減少をストップさせるために出産に祝金、そして子供が小さいうちはお助け金を与えました。

 そう、「子ども手当」に似てます。まあ、簡単に比較できるものではありませんが。

 彼の施策は図に当たり、村はかつての活気を取り戻しました。そして、代官はおよそ数年で交代するのですが、この人の場合、交代しようとすると百姓たちが大挙して押し掛けて「どうか残って下さい」と嘆願するものだから、のべ30年ほども同じところにいたそうです。

 どこでも同じようなことがあったというわけではありませんが、松平定信が失脚した後も彼と志を同じくする「信友」というブレーンたちが、地域振興策を続けていきました。

 その結果どういうことが起きたかというと……

 米がとれすぎて百姓たちが太ってきました。

 そして反対に武士がやせてきました。原因は米相場の暴落です。武士は米を換金して暮らしてんだから、そらそうなりますわな。小さな藩は商人が相手にしてくれないので、「年貢の先渡し」で食いつないだりします。

 松平定信は武士の威信を保つため、旗本の借金の一方的な棒引きまでやったんですが……

 貧しい藩では武士が百姓に頭が上がらなくなるような事態も起きました。

 

 とにかくまあ、こうした政策ってのは、どちらの方が絶対にいいということはなくて、どちらにもそれなりの理があったように思います。田沼意次の政策だって、良いものが多かったのはいろいろな本に書かれている通りですから。

 しかし、「現代的」と考えられてる問題でも、探ってみると案外昔にも似た事例があったりするものです。

 このあと、事態を憂慮した幕府は米相場を操作しようとしたり(市場介入)、貨幣を改鋳して金をばらまいたり(金融緩和)します。こういうところも変わらないですね。