とりあえず芝居じみた話ってのは疑った方がいいのかもしれない

 以前ちょろっと書いたことの続きのようで、そうではない話を少し。

 寛政の改革の時の将軍と言えば十一代徳川家斉です。十六人の妻妾に男女合わせて五十人以上の子をもうけ、各地の大名に養子として「押し付けた」という話。大名の中にはちゃんとした跡継ぎがいたのに、しぶしぶ受け入れたとこもあったとか。テレビで「オットセイ将軍」とあだ名した番組もあったらしく、娘に解説を求められて困ったりしました。でもちゃんと解説しましたよ。ええもう、つつみかくさず。

 で、この「押し付け」の養子ですが、本当に押し付けばかりだったかというとちょっと微妙な部分もある。

 当時田沼意次の政策でもって経済が江戸に集中しちゃったことはすでに書いた通りで、地方の藩は積極的にこの「養子」を欲しがったと思うんですね。だって、幕府から色々良くしてもらえますし。だいたい養子にくるってだけでも、将軍の子という格式がありますから、相応の「持参」があったはずです。それは養子だけでなく、嫁でも同様だったでしょう。

 

 さて、「将軍の子」としてちやほや育てられた殿様が、一転して田舎の藩に養子なんぞに行ったらどうなるか……

 明石藩に松平斉宣(まつだいら・なりこと)という、将軍家斉の二十六男(はあ…)が養子に入りました。この人、とにかくわがまま放題勝手放題で、お気に入りの側近を侍らして昔からの家臣の諌言など馬耳東風といったありさまだったそうです。ただし、この人が養子に来たおかげで、明石藩は六万石から八万石に加増されました。

 この斉宣ぼっちゃん、「大名行列を横切るものは誰がなんと言おうと切る!武士の面目を取り戻すのだ!」と張り切って初めての参勤交代に出かけました。

 ここでちょっと付け加えておくと、江戸も中期に入りますと、「切り捨て御免」なんか芝居の話みたいなもんになってます。大名行列だって、江戸市中に入ったらいちいち切り捨ててらんないくらい「無礼」がある。商家の丁稚小僧なんかは走ってなんぼですから、ついつい行列を横切る。そこでどうするかというと、行列の侍が呼び止めて商家の名前を聞く。それであとからその商家に出かけて「はなはだ不届きである!」とか鼻息荒く吠える。すると奥から番頭が出てきて袂に二分金をすとん。すると武士は「以後気をつけよ」とかえばりながら帰ってゆく、という寸法になってました。大きな商家は参勤交代の季節になると、二分金の包みをいくつも作って備えておいたそうです。

 付け加えが長くなりましたが、まあそんな感じで、田舎でだって叱るくらいで「切り捨て」なんか大して流行んなくなってたんです。

 そんな惰弱な風潮に異を唱え武士本来の姿を取り戻さん、としたのかどうかは定かではありませんが、はりきりまくってる斉宣ぼっちゃんの大名行列を横切っちゃった者がありました。

 ただし、横切ったのは三歳の女の子。

 さすがにこれを切り捨てるのはどうか、と家臣たちも止めましたし、近在の村からも女の子の親はもちろん庄屋もすっとんできて土下座して頼みました。

 しかし、斉宣ぼっちゃんは側近に命じて年端も行かぬ女の子を切り捨てさせ、意気揚々と立ち去ったのでありました……

 

 その後、この一件はぼっちゃんの思惑からはずれて大きな問題になりました。

 切り捨てをやった場所ってのが、今の中津川の辺りで、当時は尾張藩の領地だったんです。どんな理由があれ、御三家筆頭尾張大納言の領地で勝手な振る舞い許しがたし、と尾張藩主が大激怒。ちなみに当時の尾張藩主も家斉の子供で尾張に養子に来てます。ぼっちゃんのお兄さんに当たります。なんだこりゃ。まあ、兄弟とはいえほとんど顔を合わせたことはなかったと思いますが。

 それで降された裁定が、「以後明石藩の者が尾張領を通ることまかりならん」というもの。なーんだこの程度か、と思うかもしれませんが、藩にとってはこれ、死活問題です。だって尾張領を通らなかったら、ただでさえ経費(かかり)がとんでもない参勤交代が、今以上にとんでもないことになる。とてもじゃないけどそんなの無理無理無理かたつむり!

 じゃあどうしたかというと、明石藩の大名行列は尾張国境付近で全員町人の服に気替え、刀は御座でくるんで隠し、身をやつしてぞろぞろ通ったそうです。たぶん、関所の役人は武士の情けで見て見ぬ振りをしたでしょうね。

 そしてこのあと、しょぼい暴君斉宣ぼっちゃんはすぐ死んでしまいます。享年二十。松浦静山『甲子夜話』には病死とありますが、三田村鳶魚は女の子の父親が「猟師」で、街道で待ちかまえて撃ち殺した、なんてそれこそ芝居臭い話を書いています。

 余談ですが、家斉の子供は成人前に死ぬ者が多く、しかもその後も子供に恵まれなかったりして、結局系譜が残ったのは津山藩へ言った斉民(なりたみ)だけだったりします。なんですかねえ、これ。殿ご乱心につき一服盛ったりとかしてんじゃないですかね。

 

 ところでこの暴君ぼっちゃんは映画の題材になってます。

『十三人の刺客』ってやつですが、映画の方では父親の松平斉韶(まつだいら・なりつぐ)がやんちゃしてたことにされてます。なんでそんなことになってるのかは知りません。

 

 と、ここまで書いておいてなんですが、このエピソード、どこまで本当なのか……

 というのも、似たような話が静岡の三島に残ってるんですね。

 言成地蔵尊てのがありまして、この由来がやはり切捨て御免なんです。

 貞亨(じょうきょう)四年(1687)春、将軍綱吉のころのことですから、上記の話よりずーっと以前ですね。

 やはり明石藩主の松平直明の行列を横切った女の子が殺されているんです。

 ただし、こちらは六歳で尾張藩藩士尾張屋源内の娘小菊、と名が残っています。

 わがまま放題な二十五歳の殿様松平直明は、「なんでも殿様のいうことを聞きますから助けて下さい」と叫ぶ小菊を手打ちにしてしまいました。父親源内は箱根山中塚原新田の松並木で行列を待ち伏せ、大名籠を火縄銃で撃ちましたが、家来の機転で籠は空になっており、源内は怨みを晴らせぬままその場で自刃して果てました。

 で、この父親、もともと砲術の名手で、事情があって浪人し、三島の地で「猟師」を生業にしていたとか……

 

 ここまで来るとなんかちょっと笑っちゃうんですが、どっちかが話をパクってますよね、これ。最初の話だって、『甲子夜話』に載ってるだけで、明石藩の史料にはないそうですから。ヘタすりゃ両方フィクションの可能性もある。

 ついでに言成地蔵尊はこの小菊を祀ったもので、「なんでも言うことを聞きますから」と小菊が言ったので、どんなろくでもないお願いも聞いてくれるお地蔵様、ってことにされてます。

 なんか地味にひどい。