本と賭博と金と女となんかいろいろ

 最近、毎日のように図書館に出入りしている。ちょっと調べたいことが色々とあるせいだが、内心忸怩たるものがある。

 なぜなら、本はなるべく金を出して買うべきだと思っているから。

 図書館できれいにパウチされ、ナンバーをふられた書物を手にし、その内容を頭に入れていても、それが肉体化してゆく「手応え」がない。

 ゲームセンターで、換金されることないチップがどんどん増えていく、とかそんな感覚がある。

 「読書と賭博は、身銭を切らないと身に付かない」

 と、自分は考えている。

 賭博は自分が稼いだ金でやるからこそ、本気で勝とうとするわけで、扶養家族の身分で強くなれるわけがない。どっかの製紙会社のドラ息子とかね。

 読書でも、「いずれは手元から離れていく本」なんかじゃ、同じ内容でも頭の中へ落っこちる深さが違う。

 それから意外と見過ごされがちだが、書棚に並べて背表紙を毎日のように目にする、というのが記憶にとって非常に重要なのだ。たとえ0.00001秒でもその本の存在を認識するなら、読んだ内容についての記憶も同時に刺激されるからだ。それにはやはり、本は金を出して自分のものにしなくてはならない。

 だから読書家はみんな、大きな部屋の壁一面の書棚というものに憧れるのだ。

 

「本と娼婦はベッドに連れ込むことができる」とベンヤミンが言ったとかで、80年代のポストモダンとやらではずいぶんいろんなとこでこのセリフを目にした。

 へえ、上手いこと言うもんだなあ。だけど、なんで恋人じゃなくて娼婦なんだろう?と思った。

 もしかして、ベンヤミンも図書館を愛用していたのだろうか。どちらも一時の快楽を与えてはくれるが、けっして自分のものにはならないからだ。いやそれとも、どちらも「金を出して買う」から?じゃあ、図書館の本はタダだから違うよね。どっか噛み合ない感じが残る。

 ベンヤミンはジンメルの「精神的遺産相続人」で、師匠のジンメルと同じく女に良くもてた。これは哲学者としては異例のこと。友人のアドルノはベンヤミンの女癖にしょっちゅう苦言を呈していた。

 そんなベンヤミンだから、ちょっとこんな風に言ってみたかったのだろう。でも同時にベンヤミンは良く知っていたはずだ。本と女をベッドへいっぺんに連れ込んではいけない、ということを。それが娼婦なら特に。せっかくのお金が無駄になるからだ。

 

 なんでこんなセリフがもてはやされたかというと、読書家という人種は基本的に女にもてないからだ。ごく単純な話。

 ベンヤミンはそんなつもりで言ったんじゃないだろうけど、このセリフをもてはやした連中は、ほぼ負け惜しみのかわりにベンヤミンの口吻をまねていたのだと思う。

 それと、もてない男にも寄り添ってくれる女は、恋人よりも娼婦の方が可能性が高い、という意味もあるのかもしれない。

 

 さて、女を金で買うというのは、どんな気分のするものなのだろうか。買ったことがないのでわからない。ついでに、女性にプレゼントということも、ほとんどしたことがない。

 カザノヴァによれば、高価なプレゼントに心の動かない女はいない、ということだ。

 このように考えてみると、普通に女性とつきあうことの方が、うんとお金がかかるということがわかる。

 読書家がもてないのは、本にばかり金をつぎ込むからだろう。ついでに賭博だってなかなか上達しない。本につぎ込むことの方が優先になるからだ。

 

 亡くなった夫の蔵書を整理したい、との依頼で買取にいったときのこと。

 おそらくは「書斎」であったであろう六畳間は、坐る隙もないほど本が詰め込まれ、そこからはみ出した本が、壁に沿い階段を昇り、二階の窓際まで続いていた。その様子は、得体の知れない植物が天空に昇ろうとして、不意に断ち切られたようにも見えた。

 亡くなった夫は個人タクシーの運転手だったという。

「女や賭博に入れあげるよりマシかと思ってほっておいたんですけどねえ……」

 と奥さんはため息をついた。

 本は歴史の専門書が多く、買取値はサラリーマンの月収ほどになった。

 帰りしな、電話で特上寿司の出前を頼むはずんだ声が聞こえてきたことと、庭の犬がやたら遠吠えをしていたことを憶えている。

ベンヤミン アドルノ往復書簡 1928‐1940