藤本義一が亡くなったけど川島雄三のことを書いておこう

 朝刊で藤本義一の訃報を見たが、藤本義一の著作はほとんど読んだことがない。なんとなく、読まなくても「よく知ってる」ような気がしたからだ。有名人というのはそうしたものだ。彼はガキどものあこがれ11PMの司会を、最初から最後まで25年つとめた。私くらいの年代の男どもにとって、「大人」というのは11PMにでてくるような大人であり、大橋巨泉や藤本義一がモデルだったんだと思う。無意識のうちに。

 残念ながら、私は巷間名高い11PMというものは一度しか見たことがない。見たのは修学旅行先のホテルのテレビでだった。同室の三人はすでに何度も見ているようで、あーだこーだうるさかった。しかしその日は男子高校生が鼻の穴をふくらますような展開はなく、そのあと夜通し昔の思い出やテレビや小説や映画のことを明け方まで語り合ったことの方が印象に残っている。

 ヘンな憶測だが、「肉食系」というのは、11PMをしっかり見ていた男の子がなるものではないだろうか。1990に番組が終了し、11PMに触れることなく育った男の子はどんどん「草食系」になった。かくいう私がそうだし。妻に言わせると、私は草食系の走りらしい。まあそんなわけで、少子化を憂える方々は、11PMを復活させるのも一つの手段かも知れない。もちろん冗談なので、真に受けないように。

 

 さて、藤本義一の訃報に接して、まず思い浮かんだことは、「これでまた川島雄三の声咳にふれた人間がいなくなった」ということだ。

 川島雄三というのは、昭和二十〜三十年代に活躍した映画監督で、映画を見たことがなくても代表作の『幕末太陽傳』の名前はどこかで聞いたという人も多いと思う。

 藤本義一は駆け出しの頃、川島雄三のもとで働き、その思い出を「生きいそぎの記」という小説に書き残している。

 

 思想堅固デナク、身体強健デナク、粘リト脆サヲモチ、酒ト色ニ興味アルモノヲ求ム。監督室内、股火鉢ノ川島。

 ——撮影所の掲示板に、この貼紙が無造作にピンでとめられていた。手帖のページを破りとった小さな紙切れに、ちまちまと丸い字で書かれていたという。

 応募しようとした藤本青年は、先輩にとめられる。川島雄三の下で働くと、必ず胃潰瘍になるか肝臓をやられる、と。

 それでも藤本義一は川島雄三に会い、以後得がたい経験を積む——

 

 川島雄三は、昭和三十八年に四十五歳で死ぬまで四十七本の映画を撮った。代表作『幕末太陽傳』以外は、駄作・失敗作も多く、一部のマニア以外にはあまり好まれないようだ。蓮見重彦なんか、膨大な量の映画評論にその名を記すことすらしてない。完全に無視している。

「子供の頃小児麻痺にかかった」と自称していたが、実際はALS(筋萎縮性側索硬化症)だった。しかし、そのことを表に出すことなく、死ぬまで喜劇を作り続けた。

 

 個人的に川島雄三というと、一番印象に残っている映画は『笑ふ宝船』だ。

 これは戦時中に「恤兵映画」、つまり兵隊さんを楽しませる映画として作られたもので、戦後は随分永い間お蔵に入ってしまっていた。

 二十分弱の間、ストーリーと呼べるようなものはなく、とにかくギャグの連続でつなげた映画で、全然頭を使わずラクに楽しめるようになっている。その辺はストレスの高い兵隊さん向けと言えよう。ただ、ギャグの中に一カ所こんなやりとりがある。

「人は、なぜ死ぬのかしら」

「あとがつかえてるからです」

 戦前にロングランを続けていた演劇、徳富蘆花原作『不如帰』のパロディだ。

 しかし、これから死地に向かう兵隊さんたちは、これを見てどう思ったんだろう。ただ自虐的に笑っただけだっただろうか。よくまあ軍部から何も言われなかったもんだ。

 

 川島雄三が監督し、藤本義一が脚本を手伝い、試写会で井伏鱒二が憤然と席を立ったという『貸間あり』を、もう一度見てみたいと思う。

  ラストシーンで小金次が立ち小便をしながら、『厄除け詩集』の有名な一説を喚く。『サヨナラだけが人生だ』

 

 

川島雄三、サヨナラだけが人生だ