ずいぶん間があいちゃいましたが、Part3です。
なんかしらんけど解散とかしちゃってるんで、来月には選挙ですね。こうみえても投票には毎度行っております。
「劣悪な政治家は、投票しない善良な市民によって支持されている」
…なんてフランクリンさんが脅かすもんで。やーねー。
話変わって、ある日アメリカのとある町の投票所で、二人の経済学者がばったりでくわしました。
「よ、よう……」
「お、おう、お前何しにきたの?」
「何って、……いや、なんか、かみさんに無理矢理連れてこられちゃってさあ」
「ああ、そう、そうね。俺も俺も」
「うんやっぱそうだよな」
「そうそう」
「ま、このことはお互いに……」
「そうだね、ないしょってことで……」
「じゃ、そういうことで」
「そういうことで」
とまあ、こんな具合にぎこちなく別れました。
なぜ二人はこんなにぎくしゃくしていたのでしょうか?
それは、経済学的に
「合理的な人間は投票するはずがない」
からです。パトリシア・ファンクって経済学者が言ってんですが、もともと政治経済学では、「人はなぜ投票するのか?」てのは重要な疑問だったりするんです。
そう、民主主義なら当たりまえー、な話が、経済学では「説明がつかない、不合理で不可解な行動」になっちゃうんですね。だって、清き一票なんか投じたって、何が変わるってわけでもないし。なんでわざわざ労力使ってやんなきゃなんないの?インセンティブで動くはずの人間なら、投票なんて「非経済的」なことなんかしないでしょー、ってわけ。
だから、投票しない人の方が、経済的には合理的なんですね。なんだこりゃ。どーするフランクリン。
世間にはよく「民主主義」を上から目線で見下して溜飲を下げるタイプの評論家先生がいらっしゃいますが、そういう人はたいていの場合、「経済的」というイデオロギーにそって考えるようになってます。無意識に。
そしてそういうセンセイ方が、同じく口をそろえるのが、「エコロジーなんか偽善だ!」ですね。
そりゃそうです、エコロジーなんて、経済的合理性皆無っスからね。地球に優しいけど懐に優しくない割高なECO商品を買ったって、個々人にはなんの利益もない。不可解で非合理的です。そういうものは許しがたい、ということなんでしょう。
こういう「経済学的思考」てのがイデオロギーでしかない、てのは前回書きましたので繰返しません。
こうして考えてみると、投票するってのとエコロジーって似てるなあ、と。
どちらもウソ臭く思えるのは、経済的合理性にかなっていないからでしょう。でも、そんな合理性なんてイデオロギーにのっかったものでしかありませんから。だから「ウソ臭い」といってるほうも負けず劣らずウソ臭い。なんか「馬鹿っていうやつが馬鹿」みたいな話ですね。
これは「経済学的思考」がイデオロギーでしかない、という証拠の一つです。
「馬脚」ってのは、けっこう身近なところに現れるもんですね。
今回はこれにて。
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