人類はいつ働きたくなるのか

 一年ほどぶらぶら働かなかったことがある。貯め込んだ金が多少あったので、それを食いつぶしていた。意図して働かなかったので、職探しなども一切しなかった。

 人間は働かないでいるとどうなるか。

 まず、時間の観念がなくなる。どのくらいなくなるかというと、自分の年齢を忘れるくらい。「時間」というものが、「年齢」を含めて、社会的な事象なのだということがよくわかった。

 そして人との会話に飢えてくる。すでに妻とはつきあっていたし、毎日のようにいきつけの酒場に顔を出してたし、雀荘やパチンコに行ってはこずかいを稼いでいたのだが、それでも足らなくなる。当時インターネットなんてものがあったら、ずっとパソコンにへばりついていただろう。

 そして、奇妙なことに、自分が何かの「奴隷」になっているように思えてくる。

 最初のうちは解放感でいっぱいになって気づかないのだが、一年もたつとひとりでにわかってくる。

 (ああ、奴隷って、働かないものなんだな)と。

 

 ヘーゲルの『精神現象学』に「主人と奴隷の弁証法」というのがある。木田元氏によれば、ヘーゲルの哲学で重要なのはこれだけだ、とマルクスは考えてるんだそうだ。ほんまかいな。

 

反哲学史 (講談社学術文庫)  

 

「弁証法」なんていうと身構えてしまうけど、要するに働いているやつの方が「世界」と対峙する機会が多いので、働かずにいるやつよりも「世界」について優位に立つようになってくる、というもの。まあ、お父さんが定年退職すると、すっかりお母さんに頭が上がらなくなるようなもんだ。

 こういうぶっちゃけたことを言うと、必ず専門家はぐつぐつ言うけど、ここは自分のブログなんで勝手にさせてもらおう。

 

 おそらくヘーゲルの時代には、働かずにぶらぶらしていて「飢えない」人間がたくさんいる状況というものが想像できなかったんだろう。「奴隷」とは必ず「働く」ものだと考えている。

 実際は、奴隷というのは働かない。誰かに「働かされる」のをじっと待っているのが奴隷というものだ。

 じゃあそれに対する主人とはなんだろう。おそらくそんなものは存在しない。これまで「主人」と思われてきたものは、奴隷が作り上げた幻想のようなものだ。

 とまあ、こんなことを考えることが出来たのも、バブルの残り香ただよう時代だったからかもしれない。世界はまだまだ奴隷で満ちている。

 

「飢えと労苦からの解放は、隷属と卑しめからの解放と必ずしも符合しない」

(J.ハーバーマス『労働と相互行為』)

 

 

精神現象学

 

 今日は『勤労感謝の日』わざわざ「感謝」とつけているところが、なんとも味わい深い。