外側の無い世界は早く腐るということ

 小学生の頃、授業中にぼーっと他のことを考えているようなガキでした。

 二年生くらいの頃によく考えたのは、「宇宙に果てはあるのか?」ということ。そして、「果てがあるのなら、その外側は果てがあるのか?そしてまたその外側は……」

 これ、「考えてもしょーがないので考えちゃダメ」とブッダが禁じてるそうな。まあ、そのうち『物理学入門』という本を読み、「宇宙は空間が曲がっているので、無限だけど閉じている」というような解説を得て、「そうかー、くーかんがまがってるんだー」と無理矢理わかったフリをしました。

 

 大人になるとそんなフリもできないので、わからないものはわからないと思うようにしている。ところが、世の中には「外側」というものを絶対に意識せず、「くーかんがまがってる」とこにとどまって全然出てこようとしない人もいる。それもけっこう偉い人で。

 

 なんか思わせぶりに書き出してしまったけど、つまりは科学(理数系の学問の総称として)とか経済学とか、そういう専門家さんたちの話です。

 現代において、哲学の役割ってのは、そういう「頑として外側を認めない」人たちに、ちゃんと「外側」があるよ、と指し示すことです。まあ、当然なかなか聞く耳持ちませんね。「くーかんがまがってる」人たちは、科学を批判できるのは科学だけ、経済学を批判できるのは経済学だけ、と考えてますから。

 もちろん哲学自身に対しても、哲学は攻撃の手をゆるめません。

「哲学の最終目的(テロス)は、哲学そのものの破壊である」(アルチュセール)なわけで、現代における「哲学」ってのは、ちょっと前なら「反哲学」と呼ばれたであろうものです。昔の「哲学」は、世界を解釈するのがその役割だったわけで、「外側」を指し示すのはそのオマケでしかありませんでした。

 どこら辺で切り替わったかというと、やっぱヴィトゲンシュタインですか。自分で意識的に「哲学を終焉させるために書いた」のが、有名な『論理哲学論考』なわけですから。ニーチェとかマルクスをあげる人もいるでしょうけど、ヴィトゲンシュタインほどには自覚的ではなかったと思います。

 

 さて、そんな哲学に、科学の側から「つうこんのいちげき」を食らったことがあります。そういやこの「つうこんのいちげき」って何かのゲーム?うとくて申し訳ないけど、なんかそういう面白さをともなった攻撃を受けたわけ。

 

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)  

 

 このソーカルって人が、ちょっとポストモダン風味で科学っぽい感じのでたらめな論文を某哲学雑誌に投稿したらそのまま載っちゃって、しかもけっこう評判が良かったというもの。後で顛末をばらして、当時ぶいぶい言わせてたポストモダン野郎どもの鼻を明かした、ってわけ。ついでに、普段ポストモダンな思想家たちが振り回してる科学知識ってのが、どんだけ稚拙な間違いにみちているか指摘したりしました。

 これに対して哲学者は粟食って「ラブレターのスペルミスを指摘するようなものだ」と、反論にならない反論をしました。でもこれ、反論すべきじゃありませんね。ソーカルのやったことこそが「哲学」なんですから、むしろそれを誉めるべきでした。

 

 この事件で「つうこんのいちげき」をくらった人たちは、「科学」を自分の言説を飾るアクセサリーくらいにしか考えておらず、勘違いを指摘されてすっかりしょげてしまいました。あ、デリダはへーちゃらだったみたいですけど。

 でもこれ、逆に考えると、哲学者がいかに「科学」に対してさぼっていたか、ということを指摘するものですよね。科学哲学の著書と言えば、いまだこれが一番なんですから。

 

科学革命の構造  

 

 つまりポストモダン思想は、科学に対して「哲学的」ではなかった、ということなのでしょう。

 科学のその「外側」を示すことができていれば、偽論文に引っかかったって大した騒ぎにならなかったと思います。

 

 そして、この事件の罪深いところは、この事件のせいで科学に対して「外側」を示すことが難しくなってしまった、ということです。

 これは科学にとって良くないことです。

「外側」があることを自覚でない思考は、内側へと閉じこもって腐敗します。

 それは経済学も同じですね。二言目には「経済学的におかしい」しか言えない人は、自分が腐っていることに気づいていないことが多いです。

 

 さて、では「外側」とは何か?

 本題に入るところで折れた腕が痛くなってまいりました。また次回。