外側の無い世界は早く腐るということのつづき

 えー、つづきです。

 

 まず、ある状況を仮定します。

 それぞれトマト三個が入った袋詰めが二種類あり、一方は「福島産」、もう一方は「鹿児島産」と書かれています。

 さて、この二つを単純に並べてスーパーで売った場合、どちらの方がたくさん売れるでしょうか?

 

 この設問は、現在の社会がどのようにあるのかを問うものではなく、そこにある人々がどのように社会というものを見つめているかを問うものです。

 ほとんどの人が「鹿児島産」と答えるでしょう。

 それでは、その横にこないだの日経の記事を貼っておいたらどうでしょうか。

【放射線と発がん、日本が知るべき国連の結論】

http://www.nikkei.com/article/DGXZZO50651160W3A110C1000000/

 あ、フォーブスからの翻訳ってなってますけど、けっこう恣意的に訳されてるんで「日経の記事」でいいと思います。元記事のフォーブスもちょっとアレですが、またそれは別の問題。

 で、この記事を読んで、購買者の行動は変化するでしょうか?

 記事には、放射能はそんなに気にしなくていい、と書かれています。

 残念ながら、行動はほとんど変化しないでしょう。

 なぜなら、福島産に放射能があるけれど、それは問題ない……のだとしても「余計な情報がくっついてる」ことには変わりないからです。何も考えずに食べられる方を、購買者は普通に選択します。

 それは、「科学的に正しい」かどうかとは、まったく関係ありません。

 科学を評価するものは、ちゃんと科学の外側に存在している、というだけのことです。

 科学者は、「科学こそが世界を評価する物差しだ」と考えてしまいがちですけどね。外側を意識することがなければ、本当に有効な情報を発信することなどできません。そして有効でない情報はただの独りよがりです。少なくともフォーブスの元記事を書いた人はそうですね。

 さて、ここらへんから「ビュリダンのロバ」とか「あれか、これか」(これはちょっと違うか)とか言い出せばいかにも哲学っぽくなりますけど、そういうのはやめておきます。だって、めんどくさいもん。

 とりあえず、「放射能」という言葉はその原義を離れ、一種のコードとして流通している、とだけ書き付けておきます。

キルケゴール著作集〈第1巻〉あれか,これか (1963年)

 

 現状において、哲学者とか思想家と言った人たちからは、重量の足らない言葉しか聞こえてきません。なかには自分ばかりむくむく太って都知事選の応援演説したりしてるのとかいるもんだから、頭に来てへんなエントリー書いたりしちゃいました。

 現時点でもっとも哲学的な発言てのは、坂本龍一の「たかが電気」くらいですか。

 さすがアーティストってやつはひと味ちがいます。

 これ、批判がすさまじかったようですね。そりゃ電気使ってテクノポップとかやってたやつが「たかが電気」とか何言ってんだ、と普通に思っちゃいますもん。それに、坂本龍一自身も自分の発言の重要性を上手く説明できなくて、ごにょごにょしたいいわけをしてしまったのも良くありませんでした。こういうときは、じっと黙っとくもんです。

 なぜ「たかが電気」という発言が重要なのか?

 それは、エネルギーというものの在り方について問いを投げかけているからです。

 原発について問う、ということは、エネルギーそのものについて問う、ということになってくるわけです。

 みんなエネルギーってのは、「無くちゃ困るもの」で、それを語る時は「科学」と「経済学」だけで語ってきました。つまり、エネルギーについての言論は、「くーかんがまがって」いたんです。

 閉じた言論をこじ開け、その外側からエネルギーを問い直そう、という衝動が「たかが電気」という言葉の投げかけに現れていたと思います。

 残念ながら不発でしたけどね。

 

 さ、またもや腕がピリピリしてきましたので、この辺で。

 

 

坂本龍一THREE