言葉が暴力になるように暴力が言葉になることはあるのだろうか

 骨折した左腕も順調に治癒しつつありますが、今もって握力が戻らない。うっかりすると持ってるネギを取り落としたりする。ああ、これではもう二度と、ギャラクティカ・マグナムが打てない……(年齢がわかるなあ)

 実は大学時代、少林寺拳法部なるものに入っておりまして、これでも二段だったりするわけです。しかしまあ、坊主頭に学ランとか、どんな罰ゲームだよコレな学生生活でしたな。あ、一応左ストレートは百二十㎏の力がありました。ゲーセンでやっただけなんだけどね。でもしばらくトップだったぞ。えっへん。

 とまあ、ジジイの自慢話はさておき、今時こんなんありかよ、『花の応援団』読んでも全然笑えねえよ、な部活でしたので、もちろん「体罰」なんざ日常茶飯事でした。

 今になってみると良い思い出……てなことは全然無くて、別に先輩方のことを恨むとかはありませんが、ああいうへんてこな「文化」はとっとと滅んだ方が世のため人のため日本の未来のため、と普通に思います。

 

 さて、まず「言葉が暴力になる」のはどんな時でしょうか。

 いろいろな状況や条件によって変わるとは思いますが、だいたい「言葉が上手く伝わらない」ときに、言葉は暴力的に振る舞うようです。

 で、「上手く伝わらない」のは言葉を発する側の主観で、実際は「伝える側の言語が貧弱である」ことが根本にありますね。簡単に言えば、「馬鹿って言う方が馬鹿」ってことです。子供がしょっちゅう罵倒語を発するのは、自分の内の想いを言葉にする能力が足らないからです。

 逆に「暴力が言葉になる」ということはあるのでしょうか。

 すいません、私はフィクションの中、というか漫画の中でしか見たことありません。「あの時、父さんのあの拳骨が俺を変えた」とか「お母さんのあの平手打ちで目が覚めた」とか「喧嘩のあとで友情が芽生えた」とか、そんなの全然知りません。

 親にいっぱつ食らって目が覚めた系の話は新聞の投書欄などでたまにみかけますんで、もしかしたらニホンカワウソよりは存在する可能性が高いんだろうな、と思います。けど、推察するに、そういう親って普段はすごく優しかったりするんじゃないでしょうか。

 私なんか小学生の頃しょっちゅう母親に叩かれてたんで、そこらへんがピンとこないですね。背が高くなるにつれてそういうことはなくなったんですが、大学に入る頃母親が「ああ、もっと叩いてでも厳しくしつけとくんだったねえ。全然叩かないで甘やかして育てたから良くなかった」などと、しれっと言ったのには眼が点になりました。いやあ暴力って、ふるった方は忘れちゃうもんなんですねえ。まあ母親にとっては、小学生のうちに叩いたのは勘定に入ってないだけかもしれませんが。

 

 とにかく、うまく言葉が伝わらない時、暴力はとってもお手軽なツールです。ガキなんざボキャブラリーが財務大臣並みですから、何かを伝えるには引っぱたいた方が話しが早いと思われがちなわけで、浜の真砂とDVがつきないのはそういう言葉の「貧しさ」からきてるんですね。同様にイジメなんかもその貧しさが根っこにあるわけで、「みんなビンボが悪いんや」という岡林信康の歌は真理を射てるなあ、とあらためて思います。

 つまり、暴力を振るうときは、言葉を暴力にすることすらもどかしいので暴力に頼っている、というのが詐らざる状況なわけです。暴力を伝えるために暴力をふるう、まあなんてシンプル。それなのに振るってる側は「伝えることがあるから」だと信じてる。まあなんてイリュージョン。

 

 そんなわけで、イジメと体罰ってのは、根っこが同じ「貧しさ」にあるんです。

 みんなもっとちゃんと本読んだ方がいいよ。

 

 

暴力のオントロギー