暴力が言葉になることがないのなら暴力から身を守るものは何だろう

 前回やや暴力的な論を展開してしまいましたので、今回はそのフォローです。

 

 柔道の監督の体罰がなにやらごたついてますが、「柔道」そのものについて否定的になる人はほとんどいないと思います。私もそうです。オリンピックで見るの好きだし。たとえ日本勢がさっぱり勝てなくてもね。ついでに少林寺拳法「部」について否定的に書きましたが、少林寺拳法そのものについてはそれほどには思っていません。なにしろ今回の骨折についても、応急措置できたのは総本山で習ったことが頭に残っていたおかげですし。三十年近く前のことでも、喫緊の場に置かれると思い出すもんですね。おかげで手術しなくてすみました。ただ、あんなに痛いとは思いませんでしたが。

 

 では、柔道や少林寺拳法などの、いわゆる「格闘技」は「暴力」ではないのか?

 難しい問題です。所詮暴力でしかないよ、と言い捨てることも可能ですが、それではあまりに考えが足らなすぎる。ただの暴力でいいならナイフでも持ち歩いてりゃすむことです。何を好き好んであんな苦しい練習なんかするのか。

 プロレスや相撲などのショー化された格闘技は、前々から書いているように、弱肉強食を正当化する「儀式」にしかすぎません。

 いわゆる格闘技の本質は、やはり「護身術」にあるのでしょう。

「身」を「護る」ことのために肉体を練磨することは、暴力に対してだけでなく、「暴力的」な諸々の事象に対する接し方を教えてくれます。

 

 古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスは『自省録』にこう書いています。

 

「生きる術は、思わぬ攻撃に対して備えを持ち、倒れずにしっかりと立っているという点で、舞踏の術(オルケースティケー)よりもむしろレスリングの術(パライスティケー)に似ている」

 

 マルクス・アウレリウスは学問も良くしましたが、レスリングも大好きだったそうです。そういえばプラトンも、アテネのレスリングチャンピオンで、「プラトン」という名前自体、レスリングのコーチからつけられたあだ名だという話があります。本名はアリストクリスという紛らわしい名前だそうで。

 

 ところで、合気道の高段者で哲学者の内田樹氏は『日本辺境論』の中で、こうした格闘技(武道)に関する考え方を「日本固有の文化」と勘違いされかねないレトリックで書いちゃってるみたいですが……

日本辺境論 (新潮新書)  

 その他の部分は素晴らしい本なのに、そこだけちょっと残念だなあと生意気にも思ってしまうわけです。ちなみに、前述のアウレリウスの言葉を内田氏が知らないはずはないんで、話をすっきりわかりやすくするために知ってて無視したのでしょう。