反省の反対は賛成なのだとバカボンのパパは言った

 なんとなく、「反省」というものについて少しだけ。

 昔、「反省だけなら猿でもできる」というフレーズが流行りましたが、この場合「猿でもできる」ことって何かと言うと、実は「後悔」と呼ばれるものの方ですね。

 反省ってのは、反省だけして終り、というわけにはいきませんから。

 反省は常に、社会へとつながる行為です。

 後悔ってのは、ただエゴを肥大させるものでしかありません。それこそ「猿でもできる」わけで、いやまあ、後悔する猿ってのもなかなか味わいがあるな、とは思いますが。

 

「反省」と「後悔」は、けっこうごっちゃになってます。どういう具合にごっちゃになってるかというと、人間の成長というのは常に「反省」をともなうものなのですが、それを「後悔すれば成長するはず」ととらえてる人が多い、というか、現代社会の九割はそう考えているんじゃないでしょうか。

 ある間違いをおかした人間を、「反省」させることをせずに「後悔」だけさせれば、人間の成長がありませんから、また似たような間違いをおこす、ということになります。

 

 もちろん、間違いに対してその都度「反省」できるのは、君子と呼ばれる人だけです。「吾、日に吾が身を三省す」ってわけですね。高校の漢文の時間でも出てきます。しかし、他人に「反省」をうながすことをせず、「後悔」を与えることばかり考えている人間は、おおむねこの「反省」を理想論として排除します。ひどいときは「時間の無駄」とか言いますね。そして、「後悔しない」ことを、「反省しない」ことと間違えたりもします。「後悔しない」ことは、むしろ「反省する」ことに結びつくのですが。

 

 さて、私は何が言いたいのでしょうか。

 最近起きている諸々の事柄が、このねじれを意識していないことが元になってるなあ、ということです。

 そして、ねじれはさっぱり解消される様子を見せませんので、この先も似たようなことが繰返し起きるんだろうなあ、と暗澹とするわけです。どーすりゃいいんだか。

 とりあえず、娘の教育くらいはちゃんとしたいものだ、と考えるバレンタインデーの前夜だったりするわけなのです。さっぱり上手くいかんけど。

 

 

自己分析 (ブルデュー・ライブラリー)