昔々、貧しい村に貧しい一人の男がいた。
男は口をきかなかった。
口がきけないのではなく、ただおのれの意志でひと言も喋らなかった。
男は鍛冶屋して暮らしていたが、そんな風だから日々の食い扶持にも事欠く有様だった。
両親は男が成人する前に亡くなり、それから男はずっと独りだった。
喋らない男に親切にする者はおらず、男は村中から蔑まれていた。面と向かってひどい言葉を投げつけられたり、つまらないいたずらをしかけられて笑い者にされたりした。
それでも男はひと言も話さなかった。
やがて男は老い、仕事ができなくなると自然に痩せ衰え、そのまましぼむように死んだ。男のことを顧みる者は一人としておらず、十日とたたずに忘れられた。
そして、死んだ男が目覚めると、そこはまばゆい光に満ちた世界だった。
男は学問どころか、文字すらも知らなかったが、そこが話に聞く「天国」だということはわかった。
辺りを見回すと、大勢のにこやかな天使たちに囲まれていた。そして男の正面にはひときわ輝かしい存在があった。
まぶしくて正視することもできないその存在こそが、神と呼ばれるものだと思われた。
空中いっぱいに声が響いた。
「お前の人生は比類ないものである。お前には無限の幸福を手にする資格がある」
それは、輝かしい存在から発せられたものと察することができた。周囲の天使たちもその響きを聞いて、うれしそうに笑いさざめいた。
「今からお前は地上へ降り、お前の望みはすべてかなえられる。無限の富を望むのなら、それは与えられる。永久に朽ちぬ名声を望むなら、それは与えられる。この世界のすべてを望むのなら、それは与えられる」
男はゆっくりと顔を上げた。すると、天使たちが口々に男をうながした。
「さあ、望みのものを言うが良い」
男は口を開いた。
「あの」
男の声は、数十年ぶりにゆっくりとその喉からあふれ出した。
「毎朝、あったかいパンに、バターをたっぷり塗って、食べたいです」
それを聞いたものすべてが、顔を紅くして恥じ入った。天使たちも、神すらも。
以上は、イディッシュ・ユダヤの昔話です。
すんません、記憶だけで書いてるんで、細部とか違ってるかもわかりません。
まあしかし、「ユダヤ」というと日本では「金儲けが上手い」という印象ばっかなので、こういうお話に出くわしたりすると、ちょっと意外に感じる人もいるんじゃないでしょうか。てか、こういう部分を理解してないと、ほんとは『屋根の上のバイオリン弾き』とかわかりゃしないんですけどね。
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