「神すらもまた恥じ入ることだろう」で書かなかった続きをやっぱり書いておこう

 前回のエントリーではうろおぼえのイディッシュ民話を書いただけになってしまったけど、本当はもっと書いてみたいことがあった。あったけれど、それについて自分はよくわかってないんじゃないか、という思いが頭をもたげてきて筆が止まってしまった。じゃあ、今になってよくわかったのかというとそうでもなくて、わからないけれど大事なことだと思うから、やっぱり書いておいた方が良いな、と思い直したのだ。主に自分自身のために。

 言い訳終了。では本題へ。

 

 

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)  

 

 マルティン・ブーバーという哲学者がいる。代表作は『我と汝(Ich und Du)」

 ブーバーはイディッシュ・ユダヤの生まれで、カバラやハシディスムなどの「ユダヤ神秘主義」を呼ばれるものから大きな影響を受けていた。

 彼は一九三三年にパレスチナに移民した。そして、ユダヤ人とパレスチナ人との共存を訴え続け、イスラエルの建国にも反対を唱えた。

 願い虚しくイスラエルは作られてしまうが、ブーバーはそのままイスラエルにとどまり、死ぬまでパレスチナとの共存を主張したのだった。

 

ハシディズム (みすずライブラリー)  

 

…………イスラエルの偉大な功績は、全存在の根源にして目的である唯一の真の神を教えたことではなく、むしろ実際、この神の対話性、すなわちこの神に向かって汝[Du]と呼びうること、この神に-面と-向かって-立ちうること、この神との交わりうることを示したことである。…………

(M.ブーバー『ハシディズム』)

 

 上記の「イスラエル」は国ではなく、ヤコブの別名である。ヤコブはイスラエルの民の始祖であり、川辺で天使と格闘して勝ったという話が残っている。イスラエルという称号は、「イシャー(勝利」「神(エル)」から来ており、「神に勝利したもの」という意味がある。

 そう、神は全知全能の絶対なる存在として君臨するのではなく、眼前にあって「汝」と呼びかけうる存在なのだ。通常、神に呼びかけるときは「主よ」と口にし、ただ仰ぎ見る。しかし、ユダヤ神秘主義においては、神は時に対等であり、この世界には「神にすらわからぬこと」「神の力の及ばぬこと」がたくさんあったりするのだ。それは、「よくわからないけど大事なこと」がそこここにあり、人間はそれについて神と対等に「知る」ことができるということだ。

 

…………ハシディズムは、もし人が本質的に人間と交わらないならば、実際本質的に神と交わりえないのだ…………

(同上)

 

 キェルケゴールが「人間は本質的に神とのみ交わる」と言ったことへの反論である。

「神秘主義」と呼ばれるものの多くが、自己と神、もしくは宇宙との合一を目指す。バラモン教がブラフマンとアートマンの合一を目指すのも同じようなもので、それは「梵我一如」という仏教用語に名残をとどめている。

 多くは民間伝称的なもので、統一的・普遍的な大宗教が成立すると、それに飲み込まれて消えるか、別なものに形を変える。

 そして、普遍的でないが故に、現世的で、人間的なものになることもある。

「神秘」といういかがわしいものから、人間の持つ本来的な「いかがわしさ」を丸ごと受容するような姿勢を生み出すのだ。

 

 ブーバーにとって、救いは「日常」にあるべきであり、人間たちの共同「生活」こそがユートピアを実現するものだった。

 それは、絶大な「救い」を与えようとする神に対峙し、「それよりもパンにバターを」ということなのである。

 

 もしかするとまた続きを書くかも知れないけど、とりあえずここまで。