昔はテレビで「出んのう屁えが」なんてギャグもやってたっけ

 こんなものが入荷しました。『実話雑誌』昭和二十五年五月号。カストリよりややマシか、そんなレベルの雑誌です。まだ「戦後」は全然終ってなくて、こんな雑誌ができてはつぶれ、つぶれてはでき、ってしてました。

 特集の一番下に、角ゴチックで「天皇立候補一覧表」なんて書いてありますね。おお、戦後の混乱で天皇を選挙で選ぶ事になったのだろうか、なんてなことはありません。この時期、「実は我こそ正当な天皇」と称する人間が雨後のタケノコよろしく全国に現れまして、その中の有名どころをリストアップしてるんです。現天皇は北朝の子孫で、「正統である」とされる南朝の方は途切れちゃってるもんだから、こういうときに我もわれもと群がり出てくるんですね。

 戦前でも「芦原将軍」というのがいまして、真の天皇を自称してずーっと精神病院に入ってました。どういう風向きか変な人気がでて、雑誌などにちょくちょくインタビュー記事が載ったそうです。

 

 さて、話を画像の雑誌に戻して、この天皇立候補の他にも「町屋火葬場空棺事件」だの「糞まみれの死体」だの「変態も程々に」だのという、うさんくさい記事が並んでおります。その中に「南帝さん拝謁記」という記事、というか中井智由喜という人が書いた小説仕立ての文章で、まあ楽しめる人だけ楽しんで下さいという調子のものが挟まっています。これは当時有名だった「熊沢天皇」に、たまたま縁があって拝謁(?)したという話になってます。

「熊沢天皇」ってのは、数多の自称天皇のハシリみたいな人で、昭和二十一年には有名なライフ誌にも記事が掲載されました。昭和四十一年に亡くなりましたが、確か今も信者が残っているときいています。

 その「拝謁記」を、ちょいと試みに写してみたいと思います。

 まず冒頭の三割ほどはどうでもいい内容なので、「謁見」の辺りから写します。あ、旧字旧仮名は新字新仮名に、あきらかな誤字も修正しておきます。それでは、はじまりはじまり。

…………

謁見

 謁見の間と云えば大げさに聴こえるが、相手が天皇であれば謁見の字句も不当ではなく、その場所を、間と言っても誇張ではあるまい。確かに謁見の間であった。それにしても四畳半とは何としても小じんまり過ぎているが、今夜は部屋の中央に、カーキ色の配給毛布が絨毯代わりに敷かれてあり、赤い漆塗りの夫婦膳の前に、時の人、熊沢天皇は泰然と膝を揃えておられた。

 その右側は、吉田内閣総理大臣である。といっても、間違って貰っては困るが、熊沢天皇の侍従長であり、スポークスマンである吉田長蔵氏なのだ。現政府の首班が吉田茂であるのに対し、熊沢天皇の総理大臣にも匹敵すべき人が吉田姓なのも、妙な対照である。

 左側は例の女官長、池永愛子女史で、さすがに女性らしく神妙な居ずまいであったが、その隣りの貴公子然とした青年は胡座をかいていた。

 この青年は、紹介されて判ったのであるが、その昔の南朝の忠臣、菊池某の後裔と称する御仁で、ある私立大学の助教授であり、吉田長蔵氏が左大臣であれば、右大臣の位置にある人物であった。

 熊沢天皇を始め、いずれも古びてはいるがモーニングの礼装であり、金色燦然とした十六菊花紋章のバッチが、互いの胸にきらきら輝いて見えた。

『あの……この人が高杉さんと言って、小説を書いてはるお人です……この人の書かれた小説を読ましてもらいましたけど、仲々御上手でしてな……』

 池永女官長の紹介の弁であった。このお世辞に大変くすぐったくなった高杉は、やおら顔を上げて熊沢天皇を見上げた。てかてかに禿げた頭、この奥に眼ありと云った金壷眼、その眼はじっと自分を見降していたが、さすがに犯しがたい気品であった。熊沢家は明治四十一年内大臣府から南朝の直系なりと、治定になっているのである。

『わたしが熊沢です。どうぞ宜しく……』

 と、天皇は、高杉より先の言葉をかけてきた。

 それにしても、妙にとろくさいアクセントで、名古屋弁丸出しであった。

 裕仁天皇の玉音が女性的であると外電は伝えていたが、熊沢天皇も、ややそれに近い柔和な音律である。

『わたしはこれから、目黒の知人宅に帰りますが、それまで一時間ばかり、貴方とお話がしたいと思いましてね……』

 熊沢氏は単刀直入に玉音を転がしてきた。

『はッ……どうぞ宜しく』

 と、高杉は恐縮した。

『なにか質問はありませんか?』

 またしても天皇は高杉の発言を求めた。なかなか性急であるのが判る。

『はあ……』

 と、彼は受返事したが、一寸間誤ついてしまった。面会を申し込んだのは当の熊沢天皇であって、言わば、高杉はお召しを受けた立場なのである。

 彼は、天皇の真意が奈辺にあるか了解に苦しむのだった。

 

……と、長くなったので続きはまた明日