神さまはいつだってイライラしている

「さわらぬ神にたたりなし」という。

 この喩えが用いられるとき、おおよそ「神」に例えられた人はイライラしている。イライラというのは、怒りの方向性がさだまっていない状態のことだ。いったい誰に向かって、どんなふうに怒ったらいいかわからない。だからイライラの「神」さまにさわろうものなら、とたんに理不尽なカミナリが落ちてくる。

 困ったことに、神さまは自分が「神」になっていることに気づかない。ほとんどの場合。ヘタをすると神以上のもの、「絶対の正義」とか「永遠の真理」とかになっている。だから神さまのカミナリは理不尽でありながら、常に「正しい」、ということになっている。神さまだから。

 そしてまたさらに困ったことには、神の怒りに触れたものもまた神となる。伝染病みたいだが、神さまは伝染る。イライラが伝染るのと同時に。もしかすると八百万の神ってのはこうして増えたのかもしれない。とするとアニミズムなんていってらんない。イライラ汎神主義なんてスピノザだってごめんだろう。ニーチェは「神の存在が信じられないのは、自身が神でないことが我慢ならないからだ」と苛立たしげに書き付けた。ニーチェはイライラを抱すぎて頭がおかしくなり、ツァラトゥストラを著した。ユングはそれを「書かれるべきではなかった本」と評した。

 そしてそしてまたまたさらに困ったことには、神さまが書いた本を読んでもやっぱり神さまは伝染る。なので読書家と呼ばれる人たちは、割と怒りっぽい人が多い。無自覚に。

 

 さて本題。

 最近、インターネットが普及したおかげで、「神さま」に遭遇することが多くなった。神さまは多くの場合、顔も名前も隠れたまま「絶対の真実」や「永遠の真理」を手短に述べて下さる。そのくせ、自分が神さまになってることに気づかない。

 もしも神さまに出会ったら、すぐさま尻を向けて逃げ出そう。

 自分が神さまにならないように。

 

 

ツァラトゥストラ (中公文庫)