五月八日の朝日新聞に、何やらおどろおどろしいコラージュとともにこのような文章が寄稿された。朝日のサイトだと登録せにゃならんけど、読むだけなら当人のブログで読める。
http://blog.tatsuru.com/2013/05/08_1230.php
いやまあ、そんな反論とかしたいわけじゃない。だいたいあってると思うし。
でも、さっそく経済学方面からいろいろ言う人がいたみたいだ。けどそれ、全部内田氏の想定内だから。こういうスキの多い文章をあげて、反応を呼ぼうという、釣りというか、ツッコミ待ちというか、メダカの群に石投げて反応を見てるというか、そういう芸風なんだよね。
この人の文章には以前にも一度触れているので、無視しようかと思ったんだけど、反論してる人たちの内容が全然反論になってない、というか、かすりもしてないんでひと言だけ書いておきたい。あ、でも反論するわけじゃなくて、補足みたいなもの。
えーっと、アダム・スミスってのが昔いて、この人は「経済学の父」なんて呼ばれてもいるんだけど、その人の主著に『国富論』(正しくは『諸国民の富のあり方とその成り立ちの研究』)てのがある。がある、とかエラそうにいうほどのことじゃない。中学生だって社会の時間に居眠りしてなけりゃ知ってることだ。
で、この『国富論』、あまりに有名すぎて読まれているようで読まれてない本のトップクラスになってる。なんで読まれてないとわかるかというと、古本屋の経験から。
じゃあこの本、さぞかし難解かというとさにあらず。とってもわかりやすい。そのわりにやたらページ数はある。経済学やってる人でも、実は何となく読まずにすませてる人がいるんじゃなかろうか。ちゃんと読むと「神の見えざる手」なんて、現代の評論家先生の使用法はほぼ誤用に近いことがわかったりする。
で、アダム・スミスはここで「人民の利益と土地所有者の利益は国の利益に合致するが、雇用者(つまり企業経営者)の利益はそぐわないことが多い」と書いている。そしてさらに「国家法の制定を雇用者に口を挿ませてはならない」としている。
つまり、アダム・スミスはすでに「企業」というものがどういう性質を持つのか見抜いていたわけ。でも、こういう論はそのうちかき消されてゆく。なぜか企業と国家がイコールで結ばれ、蜜月の歌をかなでるようになる。なぜそうなったかは、また長いお話が必要になってくる。
だから企業が反国家or脱国家的なのは、別に「グローバル」がどうしたとかいうのが由来じゃない。それが企業というものだからだ。と、アダム・スミスなら言うだろう。
……このへんにしとこ。長々やるのも鬱陶しいし、たぶんこれ、内田氏もわかってて書いてんだろうな、と思うから。
こっちの切り口から論を展開したら、ずいぶん遠回りになっちゃうからね。とにかくいろんな人に読んでもらって、考えてもらうことを第一にしてるんだな、てのは大して熱心じゃない読者の自分にもよくわかる。
ついでだから最後に、今の「新自由主義」やら「グローバリズム」の有り様を見たら、アダム・スミスは頭から湯気立てて怒ることだろう。
だってこの人が本当に書きたかった本は『道徳感情論』であって、『国富論』なんかそのためのサイドキーパーみたいなもんだったんだから。
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