W(ダブル)村上っていつから死語になったんだろう

 ほんの少し前まで、村上春樹と村上龍を二人まとめて「W(ダブル)村上」なんて呼んでいたりしました。二人ともベストセラー作家であったことと、読者層がかなりかぶっていたことが、その呼称を生んだものと思われます。

 しかし今や村上春樹はHaruki Murakamiとして海外に多くの読者を獲得し、ノーベル文学賞候補として取りざたされています。村上龍は、最近では小説家というより、社会や経済についてあれこれくっちゃべる人になった印象があります。

 何が二人を分けたのでしょう。

 小説の傾向はおおいに違いますが、レベル的にはそんなに変わらないように思えるのですが。(と言うと、ハルキファンに怒られるかな)

 

 その問題についてわかりやすい事柄を並べ立てることはやめておきます。ジャイアント・パンダとレッサー・パンダが種として枝分かれした時に何があったのか、みたいなことを書くのは趣味じゃないんで。

 そのかわりに、以前からずっと気になっている問題、二人の間の決定的な違いについて書き留めてみたいと思います。

 それは一見全く関係ないようでいて、実は深くかかわっているような、やっぱり全然違うような、でも違わなくないような、そんな話です。

 

 村上龍と村上春樹で、決定的に異なる点は何か。

 それは本の装幀です。

 村上春樹の方が格段にセンスがいい。

 村上龍の方は、駄目ではないんですが、つねに「何か違う」感がつきまとうのです。それでもベストセラーになったりするんだからかまわない、といえばかまわないわけですが、読者としてはやっぱりかまいたくなる。何が「違う」のか。

 村上龍はデビュー作の『限りなく透明に近いブルー』と、二作目の『海の向こうで戦争が始まる』の装幀を自分でしました。というか、自分が撮った写真を加工して装幀に使わせました。これが、その、今見ても何か、いや、何かどころか「大いに違う」感がするんですね……『限りなく』の装幀なんかは筒井康隆が「アンノン調」(これまた死語)だと揶揄してました。

 その後、このような「大いに」はなくなったんですが、その代わり「何か違う」感がつきまとうようになってしまいました。まるで呪いのように。

 どこがどう「呪い」かというと、かなりちゃんとしたデザイナーに装幀してもらっても、ひどく凡庸なものになってしまうのです。書名は上げませんが、これはないだろう、と思うくらい安っぽいものもあります。

 小説の内容が安っぽければ、そういう「何か違う」感も起きないんでしょうが……

 こうした「何か違う」が降り積もって、W村上の命運を分けたのだとしたら、装幀というのはほんとに大事だな、と思うわけであります。作者がピッチャーなら、装幀は俊速のショートストップくらいな感じで。

 個人的には『コインロッカー・ベイビーズ』の装幀を、誰かやり直してくれんかなあ、とぼんやり考えたりするのであります。別に悪かないけど、良くもないんで。

 

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)