村上春樹の小説に含まれる「恥ずかしさ」という成分について

 早朝五時、黒猫の鳴く声で目覚めた僕は、たっぷり水を張ったパスタ鍋をコンロにかけた。アラバマ・ソングを口ずさみながら、いらだたしく鳴きつづける猫に餌を与え、軽く口をゆすいで部屋着に着替えた。

 朝の光に薄く青が混ざっている。夏が近い証拠だ。

 そして冷蔵庫からイカを取り出し、デジカメの電池を取り出すのと同じ手さばきで解体する。まな板を洗ってニンニクを刻み、たくさんの大葉を上等の葉巻に使う煙草の葉のように細くほそく切っておく。

 湯がわき出し、何かを占うような手つきでパスタを鍋にばらまくと、何も言わずに娘が起きてくる。

 娘が部屋の中を歩くと、机や電灯や本棚や冷蔵庫や使わなくなった電子レンジまでもがひそひそとささやきだす。

 娘はそんな騒がしさに気をとられることなく、事務的にリモコンのボタンを押してテレビをつける。

 パスタがゆで上がったので、炒めた具とあえ、プチトマトのデザートを添えて僕は娘と二人で小さな食卓を囲んだ。

 妻は何日も前から出張に出ている。それはもう、楽しいことが続くと降る雨のように、僕たちにはすっかりなれっこのことだ。

 娘は黙ってパスタを食べる。黙っているのは不味くない証拠だ。不味い時はマナー・モードの携帯のような音を食べながら発する。そういうところは妻によく似ている。さらに妻は美味しいとき、「これ、どうやって作ったの?」と訊いてくる。二人とも素直に美味しいとは言わない。そんなことも僕はなれっこになっている。

「ねえ」娘が口を開いた。「ママ、今頃何してるかな」

「さあ?まだ寝てるんじゃないか」

 テレビは日本の美しい風景を画期的なほど美しく映し出し、その正面に飼っている黒猫が鎮座して真剣な眼差しを送っている。

「ママ、泣いてないかな」

「なんで」

「ママ、泣き虫だから」

 そういう娘はもっと泣き虫だ。そして僕はもっとずっと泣き虫なのだが、それはファティマの予言のように絶対の秘密になっている。

 やがて娘が「いってきます」とぶっきらぼうに言って登校する。

 すると、それまで騒がしかった机や電灯や本棚や冷蔵庫や使わなくなった電子レンジが、ぴたりとその口を閉ざす。

 僕はCDプレーヤーのスイッチを入れ、『浜辺のアインシュタイン』をかける。ゆっくりした女声のカウントが、すっかり黙り込んだ部屋の隅々まで満たしてゆく……

 

 

Einstein on the Beach-the Sony Opera House

 

 えー、一昨日の我が家の朝の風景を「村上春樹風に」書いてみました。一応ノンフィクションです。

 うわあ……なんかすげえ恥ずい。うっかり読んでしまったあなた、大丈夫でしたか?大丈夫じゃなくても何の責任も取りませんが。

 こういう、ヤクザ映画を見た後なんとなく肩をいからして歩いてしまうような、そんな恥ずかしさが村上春樹の人気の秘密なのでしょう。『いいとも』のときのエントリーで述べた「恥ずかしさの共有」ってやつですね。

 それは、共有できない人にはただただ単純に「恥ずかしい」だけなわけです。

 問題は、それが世界レベルで「共有」されているのか?ということでしょう。

 もしも「共有」されているなら、近い将来のノーベル賞受賞は確実でありましょう。