お客様から本の買取について定番の質問がある。
「どんな種類の本なら買ってもらえますか?」
だいたいいつもこのように答えている。
「どんな種類の本でも買取りますよ。エロ本以外」
店ではいわゆる「エロ本」を扱っていないが、最近はそういう古本屋の方が主流になっているようだ。なんでこんなことをわざわざ書くかというと、ほんの十年とちょっと前、私がこの店を始める頃は、「古本屋に行った」というと「どんなエロ本買ったの?」というようなことを訊かれることがままあったのだ。あったのだ、というか、男同士ならそっちの方が多かった。「古本屋を開く」と言ったときも、知り合いから「エロ本安くしてね」と言われたし、店舗物件を探すときも、「この辺りは”健全な”住宅街だから、古本屋はちょっとねえ」と言われたこともあった。
もちろん「神田の古書街に行った」というのは、単に「古本屋に行った」というのとは別の意味合いがあった。でも神田だって、エロ本屋がずいぶん増えた時期もあったんだけどね。
さて、そんな当店でも、荒木経惟の本は置いている。
今じゃ「げーじゅつ」の評価が定まり、ビェンナーレなんかに呼ばれちゃうアラーキーだが、それでもやっぱり物議をかもすときはかもされてしまうものなのだ。
Is Nobuyoshi Araki's photography, art or porn?
http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2013/may/08/nobuyoshi-araki-photography-art-porn
おそらく、彼の作品を「エロ」として排除したい人たちは、作品を見た時に不快感を覚えるというのが一番の理由だと思う。なぜ不快なのか?アラーキーの作品の背後に、こうしたものへの「需要」を透かして見てしまうからだ。
じゃあ、不快とは思わない人々はアラーキーの写真を見て、性的に興奮していたりするだろうか。少なくとも私はしていない。隠さずに言えば、なんだか「懐かしい」感じがするだけだ。しかし、そのような穏当な感想をアラーキーは望んでなどいないだろう。反応としては、ポルノとして指弾する人たちの肩をもつにちがいない。ロセッティや象徴派の画集といっしょにアラーキーの写真集を売る当店のスタイルは、「わかってない」と言われてしまうかも知れない。
ご当人に「エロかゲージュツか」ときいても、その都度その場でくるくる答を変えてしまうことだろう。
まあ、ちょいとパソコンのキーを叩けばいくらでもそれ向きの画像が閲覧できるこのご時勢に、「エロかゲージュツか」という問が立てられること自体、写真家にとって冥利に尽きるというものではなかろうか。
さて一方、本家日本でも似たような似てないような騒ぎが持ち上がっている。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013051902000124.html
昔はね、春画の画集ってのは大きく”消し”が入れられていたし、消しのない「限定版」は、ずいぶん高い値段がついていたこともあった。それが今じゃ二束三文。暴落の度合いは一時の東電の株価並み。
アートってさ、エロが退化したものなの?と憎まれ口の一つもきいてみたくなる。
開催難航ってことは、まだまだ春画がその「魅力」を失ってないってことなんだから、そんなにがっくりすることはないと思う。むしろその難局を乗り切ってこそ「アート」ってもんだ。
ところで、「エロ」と「芸術」というと、一つ思い出すことがある。
ちょいと前に東京現代美術館へ『マン・レイ展』を観に行ったときのこと。
別館とおぼしきところで、マン・レイが遺した「アートフィルム」を上映していた。
マン・レイが個人的に制作して所蔵していた、数十秒から数分くらいの短い映画(?)をまとめて公開するという趣向だ。
フィルムの内容は、抽象的な記号めいたものがちらちらするような「実験的」なものばかりで、正直退屈だったのだが……最後の一本に驚かされた。
仮面を付けた二人の女性が全裸で登場し、レズビアンショーを始めたのだ。ぼかし、カット、一切無し。仕舞いには一方が股間に張り型を装着し、もう一方に挿入し始めた。小沢昭一なら「天狗レズビアンショーだ!」と笑ったことだろう。これ、アートでもなんでもないじゃん。マン・レイが個人的に撮影して楽しんでいた、自分用の夜のお楽しみブルーフィルムじゃん。それが「アート」フィルムの間に隠してあったからって、そのまんま上映するか?ふつー。もしマン・レイの亡霊が会場にいたら「NOOOOOOO!!!」って絶叫してるだろ。しかも上映会は十八禁でもなんでもなかったから、会場には子供連れの奥様までいらっしゃったぞ。だいじょうぶだったのか、あれ。
かように「芸術」とエロは近しい。お気をつけを。
コメントをお書きください