ときどき愛がじゃまになる

妻「ママ、うそつきは嫌い!!」

娘「じゃあ、ママはデブ!!!」

妻「ぎゃああああああ!!!!」

 

 ……とまあ、子育ては日々是戦いなわけです。

「惚れてしまえばあばたもえくぼ」と言いますが、子育てはそうはいきません。かといって、えくぼをあばたにするのも違いますね。あばたはあばた、えくぼはえくぼ。

 

 あばたがえくぼになったり、えくぼがあばたになったりするのは、たいていの場合「愛」が原因です。

 その機能が良い方に回転すればえくぼばっかりな世の中になるんですが、そうそう上手くはいきません。

 えくぼに見えてたあばたがやっぱりあばたに見えてきたとき、人はよく逆上して他のえくぼまであばただと罵ったりします。これも「愛」ゆえのことでありましょう。ああめんどくさい。

 

 でもこういうめんどくささを避けていると、あんまり「成長」できないんですよね。ぬか床つくるのと同じだ、と思って地味にやっていくしかありません。

 しかし、このめんどくささを避ける方法もあります。人間以外のものを愛することですね。その人間が所属する全体でもいい。さらには、その人間を人間以外のものとして扱ってしまう、という手段もあります。成長をあきらめるなら、それも個人の勝手なんですが。

 

 まあ、一口で語れるほど単純な問題ではありませんが、最後にもう少し。

「あたしたち、いっしょのお墓に入るのよね?」というのは『上海バンスキング』での台詞ですが、ここには家族における「愛」の機能が凝縮されています。

 家族の機能として第一のものは、死を自然からひきはがし、共同体(家族)のためのものとして登録し直す、ということがあるのです。普遍的価値を持つ「倫理」てのはそこから生まれてくるんですね。その普遍性を生み出すエネルギーとなるのが家族の「愛」なわけで、えくぼがあばたになったりあばたがえくぼになったりするのは、死を転倒して普遍的価値をもたせる機能が暴走しているわけです。

 

 ここらへんのことが、もうちょっとわかりやすく書けたらなあ、まだまだ修行が足らんなあ、と嘆息しつつ本日はこれにて。

 

 

上海バンスキング

ヘーゲル『精神現象学』