書物の中に人生はあるか

「五万部以上売れた本は、だいたい『人生論』として読まれている」

 ってのは浅田彰の台詞ですが、『構造と力』とか人生論として読まれたんでしょうか。それっぽい記述は最初の五ページくらいだと思いますが、これは著者が「どうせ最初の方しか読んでないんでしょ?」という皮肉だったんでしょうか。

 皮肉と言えば、ここからポストモダンとかニューアカデミズムとか盛り上がってきたような気がしますが、浅田氏は古くさいものの代表としてヘーゲルとか批判しますけど(対談で「読まない方がいい」みたいなこと言ってたくらい)、ヘーゲル読んでた方が『構造と力』は早く読解できますよね。なんだこれ。

構造と力―記号論を超えて

 

 まあいいや、ずいぶん話が横に行ってしまったけど、今本というものはどのくらい「人生」に対して影響を持っているのだろうか。

 最近は、ちょっと考え方を変えるだけでみるみるうちに大金持ちに成れたりするそうですが、成れた人はいるんでしょうか。といっても、こうした本がどれだけ売れてもそれが「人生論」だとは、読んだ人たちですら首肯するところではありますまい。

 あとあれかな、「怒らない練習」とか禅っぽいやつ。『碧嚴録』とか読むと禅坊主って怒ってばっかだけだけどね。しょっちゅう「喝カツ」叫んでるし。悟りを得るってのは、怒りやすくなることなのかと悟りたくなるくらい。でもまあ、普通に「怒らない」ことは大事だとは思いますけどね。

 それから「モテモテになる」てのもあったか。女性がダイエットしたがるのもここに含まれるのかな。最近はメタボがどうしたとかいるから、別な理由もあるんだろうけど。

 

 さて、こうして書いてみると、上記の内容って別に本である必要はないですよね。どこぞのブログに書かれてるのを読むか、テレビで「がってん!」とか(終ったっけ?)膝を打ってりゃいいものばかり。

 冒頭の浅田氏の台詞を逆にすれば、五万部以上売れる本を創ろうとしたら、そこから「人生」が感じられるようなものにするべきだ、ってことになります。

 論理的、科学的、事実関係等において多少の問題があっても売れてしまう本、というのはそういうことなのでありましょう。人生是不可解、ですからね。

 

 

人生論ノート (新潮文庫)